信長公に会いに・・・
この土日は名古屋で研修でした。両日ともに少数精鋭・昼食中もビデオ視聴と、ぶっ続けで走る研修会でしたので、受講生だけでなく講師の先生もヘトヘトだったと思います。
講師の先生は九州のとある島で開業されておられるのですが、そのバイタリティは凄まじく、すでに3000名ほどが受講済みなんだそうです。1回あたり10人ちょっとなので、単純計算では200回以上になるのでしょうか。自分の持ってる臨床のコツなどを惜しみなくさらけ出していただきました。
例によって帰りにどこかに寄ろうと思いましたが、名古屋にはこれといった観光地がありません。歴史にしても、信長が駆け抜けた時代からのものがほとんどですから、京都奈良近辺に住む者にとっては、中途半端な感が否めません。
それにしても名古屋は今まで99%通過するだけで、わざわざ立ち寄ったのは学会とJリーグの応援と昨年の研修会の3回だけです。今回も大阪での研修が満席だったため、単に東京や福岡よりも近い名古屋会場を選択しただけですから。
名古屋城は徳川のお城ですから、何か権力を振りかざして諸大名に普請させたイメージがあるので、今回はパスしました。
そして信長公ゆかりの清洲城に向かいます。といっても、信長公がおられたときは天守はありませんでした。それが造られたのは息子の信雄の時代らしいですね。
20年前に造られた天守は新幹線からもよく見えます。線路から60mしか離れていないから当然といえば当然ですね。
JR清洲駅から標識にしたがって15分ほど歩きますと、線路脇にちょっとした高みがあります。
石段を登っていくと、右大臣織田信長公古城跡と書かれた石碑が建っています。おそらくこの高みが本丸跡なのでしょうね。
家康が尾張の国府を名古屋に移したときに、清洲城は廃城となりました。現存する名古屋城の清洲櫓は、清洲城の天守を移したものだと伝えられています。
濃尾平野のど真ん中、見える山なみははるかかなたです。この広大な地で、若き信長公は大いなる野心を燃やしたに違いありません。
古城跡の碑があるところから五条川をはさんだ対岸に、平成のお城がそびえています。
といっても時代考証は心許なく、建てられた場所は天守跡ではないし、また最上階の回廊も、当時の町長さんが「景色をもっと見やすくするため付けたらどないや?」と言ったものだとかwwww。
清洲城を偲ぶには、先述の清洲櫓に行った方がいいのかもしれません。
そういえば岐阜県境には天守のある墨俣城がありますね。ふるさと創生金の1億円で造られたそうです。そもそも砦程度の城跡に、純金のシャチホコまで載せた天守を建てるなんて、当事者の文化度を疑ってしまいます。
清洲城跡は東海道線と新幹線で分断されていて、あまり昔を偲べない状態ですが、それらのガード下をくぐり抜け、ちょっとした森になったところに信長公がおられました。
南向きのその目は遠く桶狭間方面を睨み付けているのでしょうか?
尾張を制覇した後は、美濃、近江、伊勢、越前、加賀、京都、大坂、大和までその勢力を広げましたが、燃えさかる本能寺の中で49年の生を閉じられました。
いつの間にか信長公の享年を過ぎている自分がいます。夢幻の人間50年ですが、まだまだ夢は追い続けていくつもりです。
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