カテゴリー「お城めぐり」の36件の記事

青森県のお城

本州の最北部にありながら青森県には100名城が2つあります。
弘前城はすぐ名前が挙がりますが、もう一つのお城はほとんどの方がご存じないと思います。
それは八戸にある根城で、南北朝時代に南部氏が北東北の要として築城しました。

まずは桜で有名な弘前城ですが、岩木山から下山してからの登城でしたので、あたりはすっかり薄暗くなっていました。

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ここがよく写真に出てくる天守閣ですね。実際は隅櫓ですけれど。

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本丸跡から見た岩木山です。
この日の登山はミゾレと強風に苦しみましたが、今も山頂付近は黒い雲で覆われています。
何でも翌朝に初冠雪が見られたそうです。

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翌日は八甲田山を登頂する予定でしたが、悪天と強風と低気温という予報でしたので、予定を変更して八戸へ向かいました。

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根城は南北朝時代のお城ということであまり期待していなかったのですが、意外にも遺構とかがきちんと残され、芝生の公園として整備されていました。

むしろ京都や鎌倉からはるか離れた地に、このようなお城があったことも驚きでした。
これで90城に登城です。

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みちのくの城(多賀城、青葉城、盛岡城)

蔵王山から下山し、高速バスで仙台へ。そしてJRで多賀城跡へ向かいます。
城址といっても戦国時代のそれではなく、律令国家の陸奥国の国府でした。
坂上田村麻呂が征夷大将軍に選ばれたと習いましたね。

ちょうど発掘調査の最中で、何かの行事でしょうか、手製の灯りも並べられていました。

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再びJRで仙台に戻り、今度はバスで青葉城(仙台城)に向かいます。ちょうど日が暮れようとしており、お城をあとにする頃はすっかり暗くなっていました。

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翌日は盛岡に向かいます。先日の岩手山早池峰の登山の際は素通りしてしまったので、今度はじっくり見ることができました。

不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心

学校をサボタージュした啄木は、いったいどこで寝ころんでいたんでしょうか?

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ふるさとの 山に向かいて 言うことなし ふるさとの山は ありがたきかな

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北上川の向こうに岩手山が見えました。
残りの人生で再び登ることはないでしょうけれど、本当にいい山です。

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山陰の古城 -松江城・富田城・米子城-

見知らぬ町を歩くのが好きだ。
おおよそのイメージがつかめれば、地図は見ない主義である。
迷子になろうとも遠回りになろうとも、それはそれで面白い。

ガイドに載ってないような路地、無邪気に遊ぶ子供たち、
台所から漂ってくる生活の匂い、寝そべっている犬や猫、
その町が育んできた歴史と文化が交じり合って、旅はいっそう深まる。

齢50を過ぎ、津々浦々の山々や城跡に出かけることが増え、
ここ2年以内に訪ねた都道府県は、40を越えていることに気づいた。
息子が大学生になり、子育て完了宣言をしたからなんだろうな。

それは少し寂しい人生の通過点でもあったけれど。

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先週末、夜行バスが運んでくれた先は、湖都であり城下町でもある松江だ。
早朝の町を散策すると、思いがけなく朝焼けの歓迎を受ける。
海と湖を結ぶ川に浮かぶのは、シジミ採りの船だろうか。
観光客のいない武家屋敷を、自転車の女学生が通り過ぎ、
その残像は青春時代の自分とかぶった気がした。

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山陰線のローカル列車に乗り、中海を見ながら次の目的地に向かう。
長年の間、名門尼子氏の拠点であった月山富田城だ。
それは安来の中心部から10kmほど遡った山あいの地にあり、
麓の広瀬の町までコミュニティバスで行き、本丸を目指して山道を辿っていく。

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平安末期に築城されたとも言われるこの城は、毛利氏に敗れた戦国期まで、
この地方を支配しつつけてきた難攻不落の要塞だ。
いくつもの曲輪を過ぎ、蛇の出現に驚きながら堀切を登り、
七曲がりを詰めていってようやく本丸に着く。

少し早めの昼食をザックから取りだし、来た道を振り返る。

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赤い石州瓦の民家、市立病院、尼子氏の菩提寺、造り酒屋などなど、
はるか下方に見えるのは広瀬の町並みだ。
昭和の色を濃く残した、津和野にも似た、懐かしさのただよう町だ。

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再びコミュニティバスの人となり、最後の目的地、米子城に向かう。
ここは明治初期まで五層の天主が聳えていたとか。
それが現存していたなら、100名城に選ばれてたであろう、そんなみごとな縄張りの城だ。
城山を登りつめ、石垣を攀じると突然視界が開けた。

心地よい風が吹きぬけ、眼下には米子の街と中海が広がる。
はるかかなたに境港、弓ヶ浜、ふりかえれば大山が霞んで見えた。

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高速バスで帰阪の途につき、眠りから覚めると、誰もがせわしくなる京阪神の地だった。

膨大なエネルギーが消費される、進みすぎた文明にマヒした都会でもあった。

時々遠くに出ること、それは残された自分の人生にとって、とても貴重な時間なのかもしれない。

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武士(もののふ)の夢 佐和山

青春18きっぷの最後の1枚を消化しに、今日は彦根へ行ってきました。

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明日のNHK大河ドラマ「」はいよいよ関ヶ原です。
ただし江が主人公ですので、その夫の「徳川秀忠」目線で脚本が書かれ、
関ヶ原の戦いはおそらく描かれないでしょう。
なぜなら秀忠軍3万8千人は信濃上田城の真田氏3千人に翻弄されて足止めをくらい、
肝心の関ヶ原の決戦に間に合わなかったのです。

お父ちゃんの家康が東海道を経由して尾張・美濃に到着、待ち構える三成軍と関ヶ原で死に物狂いで戦っているとき、秀忠は遅れを取り戻すためにハイスピードで行軍しても、まだ妻籠あたりでウロウロだったそうです。
詳しくは「秀忠遅参」で検索を。

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さて石田三成に過ぎたるものとして「佐和山城」と「島左近」があげられていますが、そのお城は5層の天守のあるなかなかの名城だったようですね。

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ところが三成のあとに北近江に入った井伊氏は、このお城を徹底的に破壊し、石垣や門などは彦根城の築城に用いました。

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そして徳川家康を神格化するために、三成を悪者に仕立て上げ、それが現世まで尾を引いているような感じですね。

佐和山の本丸跡からは、眼下に箱庭のような彦根城と彦根の街を俯瞰できます。それらの風景はじつに趣きがあり、歴史のロマンと悲哀をしみじみと感じてきました。

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しかし、9月だというのに今日は暑過ぎでした…。3週間ぶりの山登りでしたが、もうバテまくりでした。

そして彦根市街に下山してもひこにゃんに会いに行く気力もなく、すべりこんできた新快速電車に飛び乗って帰阪してしまいましたwww。

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福島県のお城

東京フォーラムで学会があった折りに、福島県の100名城を3つ駆け抜けてきました。義援金以外に何のお手伝いもできず、風評被害で困っている観光地にせめてお金だけでも落としてこようと思ったのです。

まずは東北新幹線「なすの」で白河小峰城に向かいます。このお城は東北本線白河駅のすぐ横にありますが、駅のホームからは、崩れて痛々しくなった石垣が遠望されました。

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大手門に回ると立入禁止になっていました。真正面の枡形の石垣が大きく崩れているのがわかりますね。次の電車まで1時間ほどあったので、お堀にそって歩いてみました。

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こちら側は搦手というか、お城の裏口になります。撮影スポットの後ろ側、割と近いところを阿武隈川が流れていたので、この高みは河岸段丘か、自然堤防を利用したものだと思われます。川と堀で二重の防御になっているのですね。自然の地形を利用したものですから大きく崩れることはなかったんだと思います。

それと対照的に、人工の手が入っている大手門側や宅地化しているところの被害が大きかったのは、やはり人間の普請したものはどこかに無理があるのでしょうね。

白河からローカル列車に揺られ郡山に向かい、そこからバスで会津若松城のそばまで行きました。かつて蒸気機関車の煙を避けるため、町外れに駅が作られたことが多いJRに比べ、高速バス網は町の中心部まで入っていけるので便利ですね。

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このお城は奥羽越列藩同盟と政府軍との戦いや、白虎隊の悲劇で有名ですね。馬出しのような出丸を三方に配置した縄張りは、甲斐の武田氏のそれによく似ています。思った以上に小ぶりな天守でしたが、その姿はとてもイケメンでした。

再び高速バスの人となり二本松に向かいます。二本松インターのバス停で下りて、小高い丘をえっちらおっちら登っていけば、ほどなく二本松城の城内に入ることができます。本丸の天守址まではさらにひと登りが必要でした。このお城からは安達太良山が遠望できるのですよ。昨年の学会前に雨の中を登ってきたことを思い出しました。途中に高村光太郎の「あれが阿多々羅山 あの光るのが阿武隈川・・・」の有名な歌碑がありました。旅情がかきたてられ、思わず何度も口ずさんでしまういい詩ですね。

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照りつける日差しの中、次は小一時間かけて智恵子の生家まで歩いて行きました。風評被害のせいか、暑すぎるせいか、観光客はほとんど見かけなかったのが少々さびしい気もしました。

壊れた家はまた建て直すことができるけれど、それ以前に自宅に帰ることさえできない避難区域の人を思うと、やりきれなく苛立たしい気持がつのってきます。いつか皆さんが笑顔で戻れますように。

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高岡城・七尾城をゆく

富山の高岡城と、能登の七尾城に行ってきました。

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高岡城前田利長(利家の息子)が築城しましたが、一国一城令により廃城となり、今は自然豊かな古城公園になっています。当時の石垣や建築物はほとんど残っていないので、逆に想像をかきたてられます。

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そして氷見線の人になり、雨晴海岸へ。ここからは条件が良ければ立山・剣岳が見えるのですが、本日は快晴過ぎて雲が湧き出てアウトでしたwww.

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そして能登畠山氏の七尾城へ。比高差300mの尾根上に延々と築かれた壮大な山城で、謙信も攻めあぐねたとか。結局は籠城時の内部分裂と 、衛生状態の悪化による感染症の蔓延で、落城してしまいました。

その後城主になった前田利家は、今の七尾市街地の小丸山に新しく城を築いたので、七尾城はそのまま自然に還っていきました。

山城めぐりは草が生い茂る梅雨~夏はキツイですね。この日は草刈りをしてくれていたので助かりましたが。   

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大嶽城・小谷城をゆく

賤ヶ岳から見えた秀麗な小谷山の姿が忘れられず、翌週4/3に再び湖北の旅に出かけてきました。小谷山にある大嶽(おおづく)城址小谷城址です。今、浅井三姉妹で脚光を浴びているところですね。

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今回はJR北陸線「河毛」駅から歩いていきました。のどかな駅と小さな集落なので、自販機はありますが、コンビニは戦国歴史資料館の近くの国道まで行かないとありません。行動食は事前に用意しておきましょう。

さて小谷山は浅井家の屋敷群があった清水谷をはさむように、南西と南東に2本の尾根が走っています。この南西の尾根を登っていけば、山崎丸福寿丸を経て、小谷山のピークにある大嶽城に着きます。浅井長政の小谷城があったのは南東の尾根の方の中間部で、観光客のほとんどはこちらに登ります。

駅から20分ほどの歩きで清水神社に到着です。この裏の上水道タンクから登山道が始まり、大嶽城址には約60分ほどで着きますが、観光対策のせいでしょうか、多くの木が伐採されて歩きやすくなっています。しかし登山の装備で行かれた方が無難でしょうね。休日だというのに歩く人も少なく、静かな山行きを楽しめます。

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尾根を歩きながら高度を上げていくと、東の尾根上に小谷城址が見えてきます。写真中央の窪みが本丸中丸の間の大堀切です。遠く伊吹山も見えますね。

ここでもうひと頑張りして、最後の急坂を登りつめましょう。山頂にもかかわらず、何段かに分かれた曲輪群が現れて、その意外な広さに心が躍ります。

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大嶽城址からは急勾配の下りになりますので、膝を痛めないよう、脚を滑らせないよう、ゆっくり下りていきましょう。遠くに視線を移せば、山王丸の向こうに姉川や長浜あたりの広大な平野が見えます。近江は肥沃な地だとつくづく思える素晴らしい風景です。

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鞍部まで下り、清水谷への分岐を右に見て、六坊跡から少し登りなおせば、山王丸に着きます。ここから小谷城址の核心部になりますので、石垣や土塁のひとつひとつを丹念に見て、縄張りを想像しながら、ゆっくりと在りし日の小谷城を偲びましょう。

堀切を越え、本丸千畳敷まで来れば、観光客が目立つようになり、少し喧しくなりますので、京極丸中丸あたりでまったりと時を過ごすのもいいですね。

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2年前の夏に来た時と比べ、 多くの木が伐採されて眺めは良くなっていました。浅井長政お市の方も眺めたであろう琵琶湖と竹生島の風景は、戦国ロマンを通り越して、人が生きていく上で本当に大切なものを語りかけてくるような気がしました。

夕陽の刻はもっと素晴らしいシーンになるのかもしれませんが、ここは山城、日が暮れる前に下りなければいけないのがつらいところです。

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津和野をゆく

地震のあとは原発で大変ですね。被災された方々に心よりお見舞い申し上げ、早期の収束をお祈りいたします。

さて先々週末の津和野の旅をレポートしてみます。夜行バスで早朝に津和野駅に着いたワタシはお城を目指して歩いて行きました。リフトはまだ動いていないので、麓からの登山ですが、ほどなく城跡に到着しました。見下ろしてみる津和野の町や棚田が箱庭のように美しく、遠くに青野山が望めました。

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ここは関西から遠いので、再び訪れる機会はないのかもしれません。ワタシ一人しかいない城跡を丹念に見て回りながら下山しました。

津和野といえば鯉ですね。列車の時間まで城下の町をそぞろ歩いてきました。

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列車の時間になったので駅に向かいました。1両編成の山口線は山あいを進んでいきます。この地方独特の赤い石州瓦の向こうに、早朝に登った城跡の石垣が見えました。

それが見えなくなるまで窓に顔を寄せ、しっかり目に焼き付けてきました。

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十五万石の城下かな

まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている。その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑は、松山。城は、松山城という。城下の人口は士族をふくめて三万。その市街の中央に釜をふせたような丘があり、丘は赤松でおおわれ、その赤松の樹間がくれに高さ十丈の石垣が天にそびえ、さらに瀬戸内の天を背景に三層の天守閣がすわっている。古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優雅なために、石垣も櫓もそのように厳くはみえない。 (司馬遼太郎 「坂の上の雲」より)

松山城は梅の花がほころびかけていました。天守から東を望めば、遠くに雪をまとった石鎚山が視界に入ります。

市街のどこからでもお城が望める松山の町は、上品かつ落ち着いた佇まいで、ほんとうに住んでみたくなるところですね。

かつては秋山好古・真之兄弟や子規、そして漱石も飽かずに見上げたり、あるいは散策したりていたであろう城山には、春の使節が訪れていました。

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南九州の城

この週末に南九州に行ってきました。目的は100名城の飫肥(おび)城人吉城、百名山の開聞岳です。臨時休診はできない開業医ですから、往復に大阪~宮崎のフェリーを利用して、時間を有効に使いました。

宮崎上陸後はローカルな日南線に乗って飫肥に向かいます。100名城に選ばれていなかったら、おそらくこの町に来ることはなかったでしょうね。まず飫肥という字が読めなかったかもしれません。復路の電車の時刻まで1時間ほどしかありませんから、急ぎ足で城下に向かいます。

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町の中央を広々とした道路が走っていますが、商店は疎らに点在するのみで、高齢化する地方都市の趣を呈していました。しかし閑散とした町を通り抜け、大手門へ続く道まで来れば城下町らしい佇まいとなり、バスで来る観光客で少し賑やかになります。たくさんの飫肥杉が屹立する苔むした本丸跡で、しばし時の経つのも忘れてファインダーを覗いていました。

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この見事な飫肥杉は樹齢100年ほどなんだそうです。とすれば明治維新後の廃城令後に植えられたものになりますが、いったい何のために植えられたのでしょうね。新たに建築物を建てるには、その存在が少々邪魔になるような気もします。

大手門を出てすぐ左に曲がると、城下町のような、整然として落ち着いた武家屋敷群跡がありました。そのひとつが小村寿太郎の生家で、それらの屋敷跡を通過するのに思った以上に時間を費やしてしまい、駆け足で飫肥駅に戻ったときは呼吸が荒くなっていました。

往路と同様、日南線で再び宮崎に戻り、今度は高速バス「フェニックス号」人吉に向かいます。道路沿いの黄色く色づいた木々や霧島連峰のパノラマを楽しみながら、県境を越えました。

人吉ICのバス停で下車し、そのまま町の中心部まで歩いていきます。球磨川の向こうに見えたお城は、ちょうど紅葉が見頃になっていました。

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お城の周囲をひとまわりしてから天守跡に登ります。ここも飫肥城のように、苔むした二の丸跡は見事な杉木立となっていました。そして諸処で鮮やかな紅葉の木が枝を広げ、夕陽に照り映えた葉を通り抜ける光線に、ワタシの心はすっかり射抜かれてしまいました。鹿児島への肥薩線の発車時刻を気にしなければ、いつまでもそこにとどまっていたい気もする、そんな魅惑的な空間でした。

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