カテゴリー「旅行・地域」の49件の記事

2009年10月28日 (水)

紅葉の伯耆大山 その2 -稜線を行く-

Daisen9 六合目避難小屋を過ぎると、尾根上のつづら折れの道は稜線へと続きます。

標高1500mあたりになると樹林帯から抜け出ますので、頬をなでる風が気持ちよく、さえぎるものがない北壁の風景がダイナミックに目に飛び込んできます。

昼過ぎともなると登山道は登る人と下山する人が交差して混み合ってきます。いきおい撮影タイムが増えてきます。写真はナナカマドの赤い実越しに見える三鈷峰ですね。

Daisen10_2 稜線上に出ると視界は360度に広がります。ダイセンキャラボクの上の木道を歩けば、ほどなく弥山の頂上小屋に到着します。

山頂石碑あたりから見る南壁の存在感に圧倒されまくりますが、崩壊が激しい山らしく、今でも多くの瓦礫が崩れ落ちているような感じです。

最高峰へは南北両側の崩壊でカミソリのようにえぐられた稜線を行かないとダメですが、現在は通行止めになっています。

Daisen12 このような標識が立ち、柵も二重になっているのですが、youtubeの動画などを見ると、立ち入っている人も多いようですね。

登山はある意味チャレンジと自己責任の世界でもありますから致し方ないと思います。とくに冬山がそうですね。

そういった意味で、大山は一流のクライマーにとって魅力ある山のひとつなんでしょうね。

Daisen13 頂上で15分ほど休憩した後、せかされるように下山しました。秋の陽が沈むのは早いですからあまりゆっくりもしていられません。

帰りは行者谷を経て元谷へのルートを採るそうです。写真右下方に見える瓦礫の河原が元谷ですね。900mの下りですので、落石や転倒に注意して、気を抜かずに下りましょう。

Daisen15 分岐点からはさらに急降下の道になりますが、ここの紅葉も素晴らしく、グループの中からも時折歓声があがっていました。

このように美しい日本の四季の中を健康な足で歩けることに感謝しつつ、下っていきました。

体調を崩しリハビリしていた数年前は、山を歩けることは二度と無理かな・・と思っていただけに、紅葉の中の山歩きは喜びもひとしおです。

Daisen17 Daisen18 1時間半ほどで全員ケガもなく、元谷の堰堤に着くことができました。大山北壁に最後の別れを告げて、再び樹林帯に入っていきます。

大山寺に着く頃は日が沈み、夜のとばりが降りかけていました。その時の大山のシルエットは忘れられない思い出となるでしょう。

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2009年10月26日 (月)

紅葉の伯耆大山 その1 -ブナの森-

Daisen1 先日の土曜日、大山(だいせん)に登ってきました。

乗りテツのワタシですが、JRだと登山口までたどり着くのに、お金と時間がかかりすぎるので、毎日新聞旅行の日帰り登山ツアーに申し込みました。

写真は米子自動車道から見た烏ヶ山(からすがせん)大山です。こちらの方では「山」を「せん」と読むことが多いです。氷ノ山(ひょうのせん)もそうですね。

烏ヶ山は数年前、蒜山高原マラソンに参加したついでに登ってきました。大山の南壁が圧倒的なスケールで迫ってきたことをよく覚えています。でもその後に起きた地震で登山道は荒れたままだそうです。

Daisen2_2  7時半に梅田の毎日新聞社前を出発したバスは11時くらいに大山寺の駐車場に到着しました。ここでお昼を食べ装備の準備をした後、11時半過ぎくらいから登山を開始しました。

20数名のツアー客は一団となって夏山登山道を進んでいきます。

3・4合目まではなだらかな道が続きます。周囲は西日本随一のブナの森で、それが見事に色づいていて、感極まってしまいました。

Daisen4 ときおり目に飛び込んでくる赤い実はナナカマドでしょうか。

高度が上がるにつれてブナの森はますます黄色く色づいていきます。無機質な杉の植林地と違って、照葉樹林帯は多くの生命を育み、また緑のダムと言われるほど保水能力があります。

巷ではダム中止の政策に反対している人もいますが、無駄な開発はやめる決断には賛成いたします。でも地域民や業者にとっては、長年政策に振り回されていい迷惑なんでしょうね。

Daisen5Daisen3_2  1時間ほど歩き、ブナの大木の元で小休止です。

黄色を中心とした鮮やかなグラデーションに圧倒されながら、シャッターを切り続けました。

ブナ林に混じるカエデの赤い色は、さらにアクセントをつけてくれました。

Daisen7 ブナ林を抜けて高度を稼いでいくにつれ、周囲のパノラマが開けてきます。

後ろを振り返ると弓ヶ浜中海が俯瞰できました。やはり日本は美しい国でした。

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2009年10月15日 (木)

勝てん・・・の城? -近江・観音寺城-

Hatimanj 見事な青天だった体育の日に、近江の観音寺城に行ってきました。写真は近江八幡駅の跨線橋からの風景ですが、安土城址の東側にひときわ高い山があります。かつて、この「繖(きぬがさ)山」には観音寺城がありました。

このように遠方から見たら、尾根続きの小山にある安土城の方が支城に見えます。攻めてきた敵が繖(きぬがさ)山に籠もったら、形勢不利になるような気もしますが・・。

それはさておき、Kannonjihukan JR安土駅から観音正寺までの比高差300mほどの道を約1時間ほどで登りきりますと、眼下に湖東平野がや近江富士(三上山)が俯瞰できます。宇宙遊泳している錯覚に陥りそうなほど、吸い込まれそうな青空が広がっていた一日でした。

本堂の脇を通り、人気がほとんどない山道を数分ほど分け入ったところに、目指す観音寺城址がありました。

Kannonjijo1 Kannonjijo2j Kannonjijo3j

いちおう日本100名城のひとつに選ばれているのですが、すぐ近くの安土城と違って案内板も標識もほとんどなく、初めて行かれる方は、どこがどうなっているかわかりにくいと思います。

私は安土駅前の観光センターで縄張図をゲットしていたにも関わらず、城址の全容がつかめませんでした。どうやら全山が要塞化されていたようです。山道を曲がるたびに不意に現れる苔むした石垣や石仏に驚きながらも、その静謐さに妖気を感じたりもしました。

1000を越える曲輪が山の南斜面にはあったという、戦国時代では日本最大級の山城でしたが、城主の六角氏は勝てないと思ったのでしょうか、織田信長が攻めてきたときに、戦わずして逃げてしまいました。こちらのほうが「勝てんの城」ですね。coldsweats01

Adutikouko 麓まで下りると、安土城天主の最上階を再現した信長の館や、観音寺城の模型がある安土考古博物館などの見どころがありますので、寄られることをオススメします。

ここからJRの線路をはさんで向こう側に見えるのが安土山です。

そして「山をまるごと城にせよ!」という信長の厳命でできたお城が安土城ですね。

Adutijrj_2 映画の影響か、はたまた戦国ブームなのか、きれいに整備された安土城址は多くの観光客で賑わっていました。

数年前は入場無料でもひっそりとしていて、石垣に腰掛けて琵琶湖や干拓地を見下ろし、はるか戦国の世に思いをはせるにはうってつけの城址でした。でも今では賑わいすぎて、その喧噪ぶりに辟易して登城するのをやめました。coldsweats02

有料になったから、ケチったのではありません(笑)。

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2009年9月23日 (水)

阿波の秋空 -夕陽編-

5awa1 四国紀行第4弾です。

坪尻駅から佃駅に向かい、そこで徳島線に乗り換えです。ここから終点徳島駅までは105分。1両編成でしたが、学校帰りの高校生で賑わっていました。

車窓からは滔々と流れる吉野川が見えます。それを眺めているうちにいつのまにかウトウトしてしまいました。

写真は徳島城の本丸というか、最高所の曲輪から見上げた眉山です。天主はここではなく一段低くなった東側の曲輪にあったそうです。

5awa3 徳島からは高速バスで帰阪します。今回は海部観光のツアーバスを利用しましたが、これが3列シートの実に快適なバスで、しかも料金が2500円でした。乗客数によっては4列シートになるのかもしれませんが。。。

吉野川は河口近くになると、四国三郎の名に恥じない大河となっていました。

そしてバスはひたすら走り、大鳴門橋明石海峡大橋を渡っていきました。そして車窓から眺めた素晴らしい夕陽が、旅のフィナーレを飾ってくれました。

5awa4 5awa5

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2009年9月22日 (火)

讃岐の秋空 -丸亀編-

2marugame2 前回の記事にもあるように、シルバーウィークの初日に四国に行ってきました。日本100名城である高松城、丸亀城、徳島城の3つのお城の登城、そして金比羅さんのお参りと、前述の坪尻駅への旅が目的でした。

まずは神戸を深夜に出るジャンボフェリーに乗船。連休初日のせいでしょうか、神戸港の待合所は人で溢れ、船内でも通路にシートを敷いて寝ておられた方も多かったです。デッキからは久々に満天の星、しかも天の川や流れ星も見えました。

夜明け前に高松港に到着、シャトルバスで高松駅に向かい、1時間ほど高松城(玉藻公園)を散策します。天守閣の石垣が工事中で殺風景だったのが少し残念でした。今度は7時前の列車に乗って丸亀城に向かいます。写真は丸亀城から見た丸亀市内と塩飽諸島です。

2marugame6 2marugame4 写真でおわかりのように丸亀城の石垣は実に見事なものでした。今まで行ったお城のうちでもベスト3に入るのではないでしょうか?

天守閣は小振りな三層構造ですが、これは観光用に復元されたものではなく、およそ300年以上前の江戸時代の普請です。

これだけ立派な石垣で、しかもはるか四方を見渡せるお城ですから、巨大な天守閣は必要がなかったのでしょうね。

2marugame3_2 2marugame7_2 南東の方角に目をやれば讃岐富士の秀麗な姿が、朝日の中に浮かび上がっていました。

まさに故郷の城に故郷の山・・といった感じで、地元の人はきっと誇りに思い、心の糧にされておられることでしょうね。

名残を惜しみつつお城を下り、次は琴平に向かいます。

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2009年9月21日 (月)

坪尻駅のスイッチバック

4yodosenn1 連休初日に四国へ行ってきました。目的は日本百名城の高松城・丸亀城・徳島城と、土讃線のスイッチバックと箸蔵からの車窓風景です。

そのついでというか、時間調整のために金比羅さんにお参りして、「おがわ」の細うどん・生じょうゆを食してきました。

琴平駅からは1両編成の阿波池田行きに乗ります。ここから駅までは50分ほどかかりますが、途中で讃岐山地を越えるため、駅は5つしかありません。

4yodosenn2 財田駅で特急通過待ち中です。カーブミラーに秋の空と列車が映っていたので、思わずシャッターを押しました。

陽射しがとても気持ち良く、ローカル線の醍醐味を満喫できました。列車の正面にはカレーパンマンのイラストが描かれています。

そうしているうちにアンパンマンのイラストいっぱいの特急列車が通過しました。その慌ただしさとは対照的に、普通列車で旅をする贅沢を味わいました。

4yodosenn4 財田~坪尻間の乗客は10名だけで、そのうち3名の老婦人だけが地元民と思われます。菓子袋の中を親子連れにあげていて、それはとても微笑ましい風景でした。

さて坪尻駅はスイッチバック駅としても有名らしく、4名の方が時刻表とカメラを手に下車されました。といっても駅前広場どころか車道もありません。おそらく撮影だけのためだと思いますが、マムシ注意!と書かれた貼り紙が印象的でした。

4yodosenn5 右手が本線、左手が駅舎と引き込み線です。

列車はいったん阿波池田寄りにある引き込み線に入り、運転手さんがハンドルバーを持って、後方の運転席に移動して駅に入ります。そしてここでも特急列車の通過待ちをします。

聞くところによると、この駅の定期利用客は徒歩30分ほどの山中に住む老夫婦だけであるとか。

元は信号場で、住民が減ってもその機能を細々と維持しているのでしょうね。

4yodosenn6 4yodosenn10

といっている間に特急列車が通過しました。現在の列車はわざわざスイッチバックにしなくても支障はないのですが、昔のSL時代はこのくらいの傾斜でも停車&発進が困難だったようです。

ホームの片隅に彼岸花が揺れていました。

4yodosenn11 トンネルを越えると急に視界が開け、はるか下方に吉野川が滔々と流れているのが見えます。

このあたりは鉄道風景絶景100選にも選ばれました。駅の手前で大きく180度カーブして吉野川を渡り、徳島線と合流します。

待ち合わせの列車に乗り換え、徳島まで2時間近く揺られていきました。吉野川を見ているうちに、いつのまにかウトウトしてしまいました。

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2009年9月 2日 (水)

丸岡城から三国港へ

Maruoka8 丸岡は「日本一短い手紙」でも有名です。一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ・・・ という本多重次の手紙が原点ですが、これは2週間前に訪れた長篠の戦場から家に送ったものだとか。お仙は重次の嫡子・本多成重の幼名で、後に丸岡城主になります。意外なところで長篠丸岡とが結びついていたのですね。

さてその手紙にあやかり、現代の丸岡町でも毎年いろんなテーマの短い手紙を募集しています。お城のすぐ下には一筆啓上茶屋があって、そこで福井名物のソースカツ丼おろしそばをいただいてきました。

そばはともかく、ソースカツ丼は微妙ですね。カツにソースとご飯ならアレですが、どうもご飯とソースの相性は、出汁にうるさい関西人には疑問符がつくかもです。

Maruoka9 行きはJR丸岡駅からお城まで1時間ほど歩いてきました。旅行者のお城へのアプローチは、福井芦原温泉からのバスがメインになり、丸岡駅からのバスの便はほとんどありません。

しかしバスの本数は福井駅からでも1時間に1本ほどで、結構な距離がありますから、行きは徒歩で、帰りは反対方向の芦原温泉駅経由で東尋坊まで行くバスに乗りました。

お城からほぼ1時間ほどバスに揺られて海に到着です。前に見たのはいつだったか思い出せないくらい、久しぶりの水平線です。瀬戸内海も行ったけれど、あそこは水平線ではないですし。

東尋坊は観光地化しすぎでワタシ的にはトホホ状態。しかもウリの断崖絶壁も「山陰や若狭ならもっと凄いトコあるで~」とシーカヤックに夢中だった30代を思い出しました。

Maruoka10j_2 夏休み最後の雑踏を避けるように、海岸沿いの探勝路を三国港に向かいます。

ここまで歩いてくる人はほとんどおらず、さっきの喧噪がウソのようです。ほとんどの人がマイカーや観光バスで来ているんでしょうね。

三国港九頭竜川の河口にあって、江戸時代は北前船でたいそう賑わったところです。埠頭ではなく海岸沿いに沢山の漁船が係留されていましたが、当時の風景もこのようなものだったのでしょうか?

Maruoka11j テクテク歩き続けて、ようやくえちぜん鉄道・三国港駅に到着です。

ビールとおつまみを食しつつ、一両編成の電車でのんびり福井駅に向かいます。

車内には液晶テレビも設置されていて、車窓風景を見つつも、ついついNHKドラマの田中麗奈に視線が釘付けになってしまいました。coldsweats01 少女からすっかり大人の女性になりましたね。

Maruoka12j Maruoka13 越前平野といえば、穀倉地帯でもあります。田圃は早くも黄金色に輝き、その中を電車は心地よいリズムを刻みながら駆け抜けていきます。

いつのまにか季節は秋になりました。猛暑の思い出も少なく、この夏は短く感じられましたね。

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2009年9月 1日 (火)

越前・丸岡城へ

青春18きっぷが1枚分残ってたので、土曜日にちょいと福井は丸岡城まで行ってきました。
敦賀までは湖西レジャー号という新快速を利用しましたが、これがリュックを担いだ中高年客を中心に満員状態で、立ちっぱなしの方もかなり多かったです。

Maruoka1j_2 敦賀で北陸線に乗り換えの際、中高年客も同様に移動です。旅慣れた方は、全力疾走で席をキープされてましたが(ワタシもだけど 笑)、そうでない方はまたまた苦行を強いられます。

これらの旅行客の中心は、かつて夜行列車で全国を旅したアンノン族やバックパッカーなのでしょう。さすがにフォークギターを抱えた方はおられませんでしたが(笑)。

進行方向によってシートの向きを変えられる現代の車両と違って、固定式のボックスシートです。

Maruoka2_2 車両もよく急行列車に使用されていた型式だったので、なおさら30年前の光景とダブってしまいました。

違いは携帯片手の人が多かったというくらいでしょうか。前に座ったグループは、どうやら越中八尾のおわら風の盆を見に行くようです。

Maruoka3 福井を越えて3駅目、遠くに霞む丸岡城を視認して丸岡駅で下車です。黄金色の田圃の中、数キロほどの道をウォーキングすることになります。

お城を遠目に見ながら近づいていく予定でしたが、なかなかその姿を見つけられず、すぐ近くまで行ってようやく天守を仰ぐことができました。

標高わずか17mの丘の上のお城ですから、ちょっとしたビルがあれば陰に隠れてしまうのでしょうね。

Maruoka6j このお城は現存する天守の中でも最も古いと言われています。

再建されたものを含め、現在のお城のほとんどが徳川政権の時の天守ですから、防衛よりも権威の象徴という意味合いが強いです。それに対し丸岡城は戦国時代のものですから、実に無骨で古風で機能的です。

Maruoka5 雪の多い北陸ゆえに、屋根瓦も石でできています。内部は華美な装飾はなく、ただ俯瞰と防衛の機能のみに凝縮されているような印象を受けました。

標高17mしかない丘の上とはいえ、周囲は広大な越前平野ですから、北は加賀国の国境、南は一乗谷木の芽峠方面の山々まで望めます。

昨年夏、炎天下の中、永平寺から一乗谷まで歩いたことを思い出しながら、山々の稜線を辿ります。

天守を吹き抜ける風は、人工的なエアコンの風と違って、とても清々しく、一足早く秋の気配を運んできてくれました。

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2009年8月17日 (月)

長篠城と設楽原

先週の100名城巡りは三河でした。
徳川家康が生まれた岡崎城と、武田家と奪い合いをした奥三河の長篠城への旅です。

長篠城ってどこやねん??ですが、豊橋から伊那に向かう飯田線に乗って約1時間、長野県の県境に近いところにあります。

信長と組んで武田勝頼と戦ったのは、俗に「長篠の戦い」と言われています。
でも実際の合戦地は設楽原なので、正確には「長篠・設楽原の戦い」ですね。

Iga1j 法隆寺駅から始発電車に乗り、30代の頃、カヌーを楽しんだ木津川の流れを見やったり、吹き渡る風に青穂がそよぐ伊賀盆地や伊勢平野の田園風景を楽しんだりしながら、関西本線各駅停車で名古屋に向かいます。

名古屋駅で東海道本線に乗り換え、休息と時間調整を兼ねて岡崎城へ。でもここは単に100名城のひとつをクリアするだけですから、さっさと見て回って、再び東海道本線の人となります。
で、豊橋駅からは飯田線長篠城駅までですが、これが対向待ちが多くてダルダルダルビッシュ・・・でした。

Nagasino2 長篠城宇連川寒狭川の合流地点の断崖絶壁上にあります。
写真の中央部分が城の中枢で、その向こうに見える小山の上に武田軍が陣取っていました。
守る兵はわずか500,一方攻める兵は15000と約30倍ですが、天然の要害の地であり、また300挺の鉄砲が効いたのでしょうか、本丸まで攻められても、しぶとく抗戦を続けます。

てか城主の奥平貞昌は元は武田方なのに、裏切って徳川方についたので、降伏しても斬首されるでしょうから、死にものぐるいで守ってたのでしょうね。でも兵糧倉を焼かれ、落城は時間の問題となりました。

Nagasino3 そこで臣下の鳥居強右衛門に命じ、闇に紛れてこっそり城を抜け出させます。
彼は泳ぎの名手だったので、淵を泳ぎ切り、敵陣をくぐり抜けて岡崎城に救援を求めます。
そして再び城に戻ろうとしたところを捕らえられました。
「援軍は来ない」と言えば助けてやると言われたにもかかわらず、「もうすぐ援軍が来るから、守り抜け~!」と言って籠城兵の士気を上げたがゆえに、磔(はりつけ)にされてしまいました。
川岸近くの彼のお墓にそっと手を合わせ、今度は武田軍の行軍をたどるように西に数キロ離れた設楽原に向かいました。

Sitara1 原といっても、畑の畝のように小山と低地が連続しているような地形です。
合戦地は長篠城からは2つの小山を越えたところにあり、
写真左の小山が徳川陣地、中央の連吾川を挟んで右側に武田の陣地がありました。
左奥の方に復元された馬防柵が見えますね。これが2kmほどにわたって構築されていたそうです。
両陣地間は数百メートルほどで、信長の本陣はさらに後ろの茶臼山にあったので、武田軍にとっては織田軍の動きは把握しにくかったろうと思われます。

Sitara3  このように織田・徳川連合軍は持参してきた材木で作った馬防柵内で防戦体制をとり、 武田方の出方を待っていました。

長篠の戦いといえば、織田・徳川連合軍は3000挺の鉄砲での三段撃ちで、むやみに突っかかってきた武田の騎馬隊が壊滅したことで有名ですが、これはどうやら後世の脚色のようです。

実際の戦闘は8時間に及ぶ激しいもので、武田軍は鶴翼の陣で馬防柵の両端を攻め、何とか内側に入ろうとしました。でも兵士の数は織田・徳川軍の方が3倍ほどあったので、なかなか崩すことができません。

Sitara4_2 双方に多くの犠牲者が出ましたが、織田・徳川方は足軽雑兵が中心だったのに対し、武田方は多くの将を失いました。敗走中の討ち死も多かったらしいです。

織田・徳川連合軍の一部が、長篠城を監視していた武田方を背後から奇襲したために、 武田方の退路が断たれて陣形が崩れ、馬防柵内の敵陣に攻めざるを得なかったことが、最大のポイントと言われています。

Sitara5_2 また家督問題のゴタゴタで、武田勝頼と距離を置いていた武将が早めに退却したことも、敗因のひとつだったでしょうね。

いずれにせよ、この戦いを境に、織田・徳川の双方は勢力範囲を広げていき、一方、武田はかつての勢いをなくして、領地に引きこもるようになりました。

あの戦いから434年、連吾川は今も変わらず、丘陵に挟まれた地を流れています。

帰路も濃尾平野と伊勢平野を突っ切りましたが、これだけの穀倉地帯を領土に持ち、また鉄砲などの近代武器を有効に使えた信長は、資金面においても戦略面においても外交面においても、やはりただ者ではなかったですね。

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2009年8月 4日 (火)

兵庫県の西端と東端

Nanko8 福岡で聴きたいセミナーがあったのですが、大雨だったのと(由布院に行けない・・)、さすが月2回も九州はアレやろ~と遠征中止。

その代わりに姫新線に揺られて、佐用町南光ひまわり祭りに行ってきました。降りる駅は播磨徳久(はりまとくさ)です。途中の検札では、半数以上の乗客が青春18きっぷを差し出していました。

駅からはシャトルバスで会場へ。これは便利だ。

Nanko1_2 Nanko3_2 直前に土砂降りの雨に見舞われましたが、幸い雨も小降りになったので、さっそくひまわり畑へ向かいます。

徳久地区には24万本ものひまわりが植えられていて、その向こうに野球場が見えたとき、まるで映画フィールドオブドリームスの一場面のようでした。

ひまわり畑に入ると、みな童心に戻るようですね。自然な笑顔があちこちで見受けられました(盗撮ぽくてスミマセン)。

ひまわりといえば、ソフィアローレン主演のイタリア映画を思い出します。でもあれは夫がロシア戦線に送られて帰ってこない悲惨さを描いていました。こちらのひまわり畑は対照的に平和です。いえ、ひまわり畑が哀楽を決めるのではなく、それはあくまでも人間の主観ですね。

Nanko6_2 Nanko7  この写真も盗撮っぽくてスミマセン。

この地区の満開の時期は過ぎていて、多くの花がその重みで頭を垂れていました。

地区ごとに開花時期が違うので、事前にHPから開花情報を入れておいた方がいいでしょう。

http://www.town.sayo.lg.jp/

再び播磨徳久駅に戻り、次の目的地津山に向かいます。

津山ではちょうどごんご祭りの最中で、多くの浴衣姿の人で賑わっていました。ごんごというのは河童のことだそうで、そういえば町の真ん中を吉井川が滔々と流れています。津山城址の天守閣跡に登城し、町を一望のもとに見下ろした後、その日は岡山に出て、赤穂線経由で帰宅しました。

津山の人にとっては、お城と川と、そして盆地を取り巻く山なみが故郷のシンボルなんでしょうね。

Koiso2 Koiso1 翌日はインプラント学会のため、神戸市の六甲アイランドへ。

この週末は兵庫県の西端と東端を訪れたことになります。

息抜きのため、お昼休みに神戸市立小磯記念美術館を訪れました。

午後からは夏空が広がり、街路樹からは蝉時雨がシャワーのように降り注ぎます。

そして予定時間よりもはるかにオーバーして、美術館でくつろいでいるワタシがいました。coldsweats01

http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/koisogallery/

いやぁ小磯良平氏のデッサン力は凄いですなぁ。

話はズレますが、大友克洋江口寿史も時代が違えば、小磯氏のようになれたかなぁ? マンガと油絵とはジャンルは違うけれど、ふとそんなことも頭をよぎりました。

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2009年7月30日 (木)

赤穂城と明石城

Akousioya 姫路に用事があったついでに赤穂に行ってきました。

赤穂といえば忠臣蔵と塩で有名ですね。写真はお城の近くにあった塩屋?さんです。

今の時世、忠臣蔵って共感を呼ぶんでしょうかね?主君が江戸城内で刃傷事件を犯したおかげで、家来がとばっちりを受けたような気がするのはワタシだけ?

また切られた吉良上野介も、意地悪ジジィというイメージになっていますが、彼の方こそ被害者なんじゃないでしょうか?coldsweats01

Akouanago それはさておき、この辺の名物に穴子があります。

で、駅近くにある某食堂で穴子天丼をいただいてきました。

お腹から開くと切腹というイメージがあるから、赤穂の穴子は背開きなんだそうです。

赤穂城は100名城に選ばれているだけあって、思ったよりも広大で立派なお城でした。山鹿流陣太鼓で知られた軍学者の山鹿素行が縄張りの一部を設計・改修したそうです。

お城も大手門をはじめ、少しずつ復元されていました。ただ雨がキツかったので、いい写真がとれなかったのですが、ここのお城は訪ねてみる価値はあります。

Akasi1 Akasi2 赤穂の次は明石に向かいます。

ここのお城も100名城に選ばれていて、2つの櫓が向かい合うように建つ立派な石垣のお城で、東海道本線・明石駅から望むことができます。

城址一帯は市民憩いの公園になっていて、高校野球県予選も、櫓のすぐ下にある球場で開催されています。

この日は雨天順延でしたが、昼過ぎには雨もあがり、緑がとても目に優しかったです。

Akasi3j 明石といえば蛸と明石焼きですね。

魚棚商店街は昼過ぎでも活気があって、新鮮な魚介類が並んでいました。

数年前、明石海峡大橋の下あたりで船釣りをしたことを思い出しました。その時はガシラがよく獲れました。

で、港近くの明石焼きのお店「きむらや」へ行ってきました。

Akasi4j Akasi5j

ここの明石焼きは玉子焼きとも言うそうで、一人前が20個です。

昼遅くに穴子天丼を食べ、移動の電車内でおやつを食べた身にとって、20個は多すぎました・・・。

最後の数個はマジ罰ゲームかと思いましたで~。crying

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2009年7月22日 (水)

東美濃・岩村城址

Iwamuramati3 以前にも記事にしたように、今年は大和国・高取城備中国・松山城と、日本三大山城のうちの2つに登城してきました。

残り1つは東美濃にある岩村城です。中央本線の恵那駅を下車し、明知鉄道に乗り換え、緑の山や田園風景の中を30分ほど気動車に揺られたところにあります。

前記の2つのお城同様、観光バスで気軽に行けるところではないですから、実際に登城した人は少ないでしょうね。でもそれだけ無秩序な文明に晒されていないので、この地を訪れた人はいい旅になるでしょう。

Iwamuramati5 Iwamuramati2 駅は町の西外れにあります。ここから城山に向かうゆるやかな道を歩いていきます。城山は他の山と違って、かつて人工物があったことを伺わせるような、段々構造になっていますから、遠目でもわかると思います。

お城までの道は、旧き良き時代の面影を残していて、自動販売機がなければ、昭和いや明治・大正を彷彿させる、そんな魅力的な城下町でした。

町の中央を流れる川を渡り、さらにひと登りして太鼓櫓のある御殿跡に着けば、そこからお城の縄張りが本格的に始まります。

Iwamura1 Iwamura7 比高差は約200mですから、本丸跡まではゆっくり歩いて30分といったところでしょうか?それまでは累々とした石垣群が続きます。

諸処に待ち受けている門跡を見ても、とても厳重で攻めづらい城であったことが伺えます。大手門も現在は空堀跡を通るようになっていますが、かつては空堀に畳み橋という木造の橋が架けられていて、戦いの時には、それを引き払って敵が登れないようにしたとか。

このお城の歴史はかなり古いのですが、江戸時代に修復された石垣は緻密なもので、三日月型に反り返ったそれには言葉を失ってしまいます。野面積みの石垣とは対照的ですね。

関ヶ原以降は主に譜代大名の松平家が代々城主をつとめましたから、小藩であっても立派なお城が造れたのでしょうね。

Iwamura2 Iwamura3 6段構えの見事な石垣の横をすり抜け、さらに門跡をいくつか通り抜けると、ようやく本丸跡に到着です。

木々が生い茂って、眺望はききにくいですが、ここまで上がれば風がとても心地よく吹き抜けてくれました。

2・3万石の小藩にもかかわらず岩村藩は学問が盛んで、知新館という全国でも5指に入る藩校を持っていました。そして昌平坂学問所とも深い関係があり、江戸幕府の老中にも人材を派遣したときいています。学問の大切さを伺い知ることができますね。

Iwamuramti1 Aketi2_2  石垣や街並みを愛おしむようにゆっくりと山を下りていき、ふたたび明知鉄道の乗客となりました。

18時間にわたる思い出深い小旅行でした。

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2009年7月13日 (月)

豊後竹田・岡城址

Bungotaketa この日曜日は博多で研修があったのですが、例によって前日にぶらっと旅をしてきました。今回は大分から熊本の九州横断です。金曜夜、神戸六甲アイランド発のフェリーに乗って、まずは大分に向かいました。

メインの目的地は豊後竹田岡城址です。

ちなみに駅名表示板にあるように「たけだ」ではなく「たけた」なんだそうです。

道理で西大分駅で切符を買うときに「たけだ」と言うと、駅員さんに「?」な顔をされたわけですね。「ぶんごたけだ」と言ったらわかってもらえました。

Oka1 駅で地図をゲットし、お城に向かってテクテク歩きます。行政区分では竹田市になっていますが、実際は平成の合併後も人口2万人少々の小さな町で、崖を持つ小高い山が市街地のいたるところに見られます。

街並みを通り抜け、トンネルを2つくぐり、さらに高度を稼いでいけば岡城址の入り口です。

写真は大手門に通じる道です。桜の季節はとてもキレイなんでしょうね。

Oka3 JR西日本などのポスターでお馴染みの風景です。

岡城はもともと戦闘用のお城ですから、それはそれは攻めにくい造りになっています。

何万という島津軍が攻めたときも、1000人ほどの兵士で守りきったというのも頷けますね。

周囲は天然の崖と峡谷に囲まれ、石垣から下を覗くと、すぱっと切り落ちているのがわかります。その名も地獄谷でした。

Takiren1 それと岡城址を有名にしたのがこの人です。

そう「荒城の月」を作曲した瀧廉太郎ですね。彼は少年時代を竹田市で過ごし、岡城址が遊び場だったそうです。

城を下り、廉太郎トンネルを潜ったところには、彼の生家が記念館として残されています。

Oka4 Oka5 このお城は石垣がとても見事なんですね。

関西でよく見られる花崗岩ではなく、地場産の火山岩なんでしょうか、少し焦げ茶色の凝灰岩っぽい石でした。

いわゆる野面積みではなく、石同士がぴったりと合わさった、とても精緻な造りなのですが、ところどころで石垣を破壊しようとするがごとく、木の根っこが食い込んでいました。

朽ちていく退廃の美というのでしょうか、人工と自然の対比を感じずにはおられませんでした。

九州横断特急に乗るため駅に戻ると、大雨のため阿蘇方面は不通になっているとのこと。予定を変更して、高速バスで熊本に向かいました。

Kumamoto というわけで阿蘇には立ち寄らず、今回はバスの車窓から眺めただけですが、雲の切れ間に顔を覗かせた久住山のダイナミックな風景に癒されました。

また外輪山を越えると、黄緑色の草原が目に飛び込んできて、これもまた感動しました。

そして熊本では、たっぷりとお城を堪能してきました。

Yamagasa2j そして博多はちょうど祇園山笠の季節でした。

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2009年4月28日 (火)

信長公に会いに・・・

P1000015 この土日は名古屋で研修でした。両日ともに少数精鋭・昼食中もビデオ視聴と、ぶっ続けで走る研修会でしたので、受講生だけでなく講師の先生もヘトヘトだったと思います。

講師の先生は九州のとある島で開業されておられるのですが、そのバイタリティは凄まじく、すでに3000名ほどが受講済みなんだそうです。1回あたり10人ちょっとなので、単純計算では200回以上になるのでしょうか。自分の持ってる臨床のコツなどを惜しみなくさらけ出していただきました。

例によって帰りにどこかに寄ろうと思いましたが、名古屋にはこれといった観光地がありません。歴史にしても、信長が駆け抜けた時代からのものがほとんどですから、京都奈良近辺に住む者にとっては、中途半端な感が否めません。

Kiyosu6 それにしても名古屋は今まで99%通過するだけで、わざわざ立ち寄ったのは学会とJリーグの応援と昨年の研修会の3回だけです。今回も大阪での研修が満席だったため、単に東京や福岡よりも近い名古屋会場を選択しただけですから。

名古屋城は徳川のお城ですから、何か権力を振りかざして諸大名に普請させたイメージがあるので、今回はパスしました。

そして信長公ゆかりの清洲城に向かいます。といっても、信長公がおられたときは天守はありませんでした。それが造られたのは息子の信雄の時代らしいですね。

20年前に造られた天守は新幹線からもよく見えます。線路から60mしか離れていないから当然といえば当然ですね。

Kiyosu1 JR清洲駅から標識にしたがって15分ほど歩きますと、線路脇にちょっとした高みがあります。

石段を登っていくと、右大臣織田信長公古城跡と書かれた石碑が建っています。おそらくこの高みが本丸跡なのでしょうね。

家康が尾張の国府を名古屋に移したときに、清洲城は廃城となりました。現存する名古屋城の清洲櫓は、清洲城の天守を移したものだと伝えられています。

濃尾平野のど真ん中、見える山なみははるかかなたです。この広大な地で、若き信長公は大いなる野心を燃やしたに違いありません。

Kiyosu2 古城跡の碑があるところから五条川をはさんだ対岸に、平成のお城がそびえています。

といっても時代考証は心許なく、建てられた場所は天守跡ではないし、また最上階の回廊も、当時の町長さんが「景色をもっと見やすくするため付けたらどないや?」と言ったものだとかwwww。

清洲城を偲ぶには、先述の清洲櫓に行った方がいいのかもしれません。

そういえば岐阜県境には天守のある墨俣城がありますね。ふるさと創生金の1億円で造られたそうです。そもそも砦程度の城跡に、純金のシャチホコまで載せた天守を建てるなんて、当事者の文化度を疑ってしまいます。

Kiyosu5 清洲城跡は東海道線と新幹線で分断されていて、あまり昔を偲べない状態ですが、それらのガード下をくぐり抜け、ちょっとした森になったところに信長公がおられました。

南向きのその目は遠く桶狭間方面を睨み付けているのでしょうか?

尾張を制覇した後は、美濃、近江、伊勢、越前、加賀、京都、大坂、大和までその勢力を広げましたが、燃えさかる本能寺の中で49年の生を閉じられました。

いつの間にか信長公の享年を過ぎている自分がいます。夢幻の人間50年ですが、まだまだ夢は追い続けていくつもりです。

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2009年3月30日 (月)

備中のお城 その3 -高松城-

なんじゃかんじゃと備中の城めぐり第三弾です。

鬼ノ城から下山し、服部駅から吉備線に乗りました。電化されていなくて(架線がない)、しかも単線の簡易な無人駅舎ですから、初めての方は見つけにくいと思います。でもワタシは一昨年秋の備中国分寺の旅に利用していますから、不安はありませんでした。

車窓から城址の位置を確認して、2駅目の備中高松駅で下車します。ガイドでは駅から徒歩10分とあったので、30分後の電車に乗ることにして、少し早足でお城を目指しました。

Bittyuu20 このお城は備中松山城鬼ノ城のように、日本100名城には選ばれていませんが、豊臣秀吉の水攻めで有名ですね。

備前と備中との国境にあってしかも山陽道に面していますから、織田軍と毛利軍がかちあう最前線にあたります。

以下のHPに詳細が載っていますので、紹介いたします。低湿地にあるお城ですから、20年ほど前にも水害の被害を受けていたようです。

http://konotabi.com/photoalbum/kibijiTakamatsujo/shimizu.htm

Bittyuu23 守る城主は最後まで毛利氏を裏切らなかった清水宗治です。

秀吉はわずか12日間で3kmにわたる幅7mの堤防を築きあげ、梅雨で増水した足守川の水を流し込むという、類を見ない方法で攻めました。その結果、高松城は孤立し、補給路も断たれました。

そして城主・清水宗治は、城兵の命を助けるという条件で降伏。毛利軍・織田軍の8万の将兵が見守る中、湖上に浮かんだ舟の上で、白装束で「誓願寺」を舞い、辞世の句を残して自刃しました。

浮き世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の

名を高松の 苔に残して

城址には句碑と首塚があります。義を貫き、主君を裏切らなかった宗治を偲び、そっと手を合わせてきました。

Bittyuu21 発掘調査によって、かつて本丸を取り囲んでいた堀跡が出てきました。そして何年もの間、沼底に眠っていた蓮の実が再び蘇ったそうです。

そしてその蓮は宗治蓮と名づけられ、今でも美しい花を咲かせてくれるそうです。

合掌。

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2009年3月29日 (日)

備中のお城 その2 -鬼ノ城-

Bittyuu10 前の記事の続き、備中三部作の第二弾です。

高梁の町をあとにして再び伯備線に揺られます。さて次の目的地は総社市の鬼ノ城(きのじょう)です。

お城といっても戦国~江戸時代のお城ではなく、大和朝廷時代のものです。かれこれ1300年以上前のものですから、普通に思い浮かべるお城のイメージとは少し違っていました。

そのころの大和朝廷は朝鮮半島に任那日本府を置くなど、想像以上にインターナショナルだったのですが、白村江の戦い唐・新羅連合軍に大敗してからは、かなり臆病になったようです。その結果、より内陸部に遷都したり、瀬戸内海沿いに防衛のお城を築いたりしました。鬼ノ城もそのひとつだろうと言われています。

Bittyuu14 Bittyuu13

総社駅からのアプローチはタクシーが一般的なようですね。鬼ノ城までは約2600円くらいですが、備中国分寺も観光するとなると観タクンという手もあります。これだと2時間で4900円です。

総社駅から20分ほどで鬼ノ城ビジターセンターに到着。復元に力を入れているようで、なかなか設備が整った建物でした。

岡山といえば吉備団子に桃太郎ですね。その元となったのは吉備津彦命百済からの亡命者温羅との戦いです。鬼ノ城という名もどうやらそこからきているようです。そういえば山から降りる途中の谷間で、キジが飛んでいるのを見つけました。それに松山城では野猿に注意!という看板がありました。

Bittyuu18 Bittyuu15

お城を一周できる遊歩道も整備されていますが、まだまだ発掘調査中のようで、あちこちで復元工事をしていました。

ここからの景色は壮大で、晴れた日には遠く瀬戸内海や四国の山々も見渡せるそうです。

新羅が攻めてきたときのことを想定し、まずは瀬戸内海方面の眺望がきいて、しかも防衛しやすいことが大切だったのでしょう。足元には備中国府が置かれた総社平野が広がっています。南東部の山裾に見えるのが、秀吉の水攻めで有名な備中高松城とのこと。次の目的地ですね。

午後遅くのやわらかな陽射しの中、城址から吉備線服部駅まで、1時間ほどのんびり歩いて下りました。ここでも山の斜面に咲くサクラを見つけながらの旅でした。

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2009年3月28日 (土)

備中のお城 その1 -備中松山城-

Bittyuu1 2300円でJR乗り放題の青春18きっぷを使って、ちょっくら岡山のお城に行ってきました。

新快速と山陽本線を上手に使えば、大阪から岡山まで約2時間半で行けますよ。でも青春18きっぷが広く知れ渡ってきたためでしょうか、けっこう同じことを考えている人が多くて、車内は立っている人も多いです。

大阪駅ではなくひとつ手前の新大阪駅から乗るとか、乗り換えの相生駅や姫路駅直前ではドアのそばに移動するとか、山陽本線は6両編成なので新快速は3~8両目に乗っておくとか、座っていくためには様々な裏ワザがあります。

福山尾道方面へ行く人で岡山からの山陽本線も満員でした。しかし伯備線は余裕を持って座れます。斜面のあちこちで咲くヤマザクラや、滔々と流れる高梁川を車窓からぼんやり見ているうちに備中高梁駅に到着しました。

Bittyuu2  駅から城址までは乗り合いタクシーなどがあるので、それを上手く活用しましょう。まぁ個人で乗ってもふいご峠の駐車場までは1200円ほどですが。

この備中松山城は日本三大山城のひとつで、そのうち唯一天守のあるお城です。先日、高取城に登城したとき、次はここに来たいと思っていたので、予定のない天気の良い土曜日を待っていました。

ふいご峠の駐車場から10分ほどの歩きで大手門跡に到着です。自家用車は山麓の城見橋で進入禁止になりますが。

Bittyuu4 臥牛山という、もともと険しい山の上に建てられたお城ですから、ちょっとやそっとでは陥落しそうにありません。大手門から本丸にかけても、岩盤の上に見事な石垣が残っています。

このお城は山陽と山陰を結ぶ要衝にあり、激しい争奪戦が繰り返されたそうです。現在の石垣は江戸時代初期のものですが、戦いのためのお城という機能が随所に残っています。

Bittyuu5 城下町である高梁市街を望みます。木々の芽吹きはまだまだですが、早咲きのサクラが「あ、あそこに1本、こっちにも1本・・」とその存在を誇示しています。

モノトーンの冬と違って、山全体がうす茶色の芽でぼんやりしているように見えました。春霞みのせいでもあったかもしれませんが。

やはり広葉樹林は季節感があっていいですね。花を散らしたサクラは緑の中に埋もれていき、次に出会えるまでふたたび4つの季節が巡ります。

Bittyuu7 Bittyuu8

小ぶりながらも見事な建築ぶりを誇る五の平櫓天守です。

最後の門をくぐれば、備中茶のサービスがあるので、天守を仰ぎながらゆっくりいただきましょう。

帰りは徒歩で下山しても駅までは1時間ほどです。列車の時間をチェックしておいて、武家屋敷跡などが残る落ち着いた佇まいの街を探索するのもオススメですよ。

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2009年3月16日 (月)

箱根を越えて その3 -おれは男だ!-

Otoko_2 山中城、石垣山一夜城に続く箱根シリーズ第3弾です。

40代後半以降の方ならご存知でしょう。かくいうワタシも中学生の頃、日曜日20時からは「おれは男だ!」を視ていました。 青葉高校剣道部キャプテン小林弘二が主人公の青春ドラマです。

森田健作が青春の巨匠と呼ばれるのは、この番組の影響が大きいと思います。千葉県知事選の結果が気になりますね。

健作、いや検索すると、「おれは男だ!」関連webがたくさん出てきますね。ワタシは「おい吉川君、だいたい君はだなぁ・・・」のバトン部主将の吉川操よりも、相沢高校剣道部主将の丹下竜子がお気に入りでした。どっちも高校生なのにマスカラしてたけどwww。

この番組、ホンマいろんな人が脇を固めていましたねぇ。おじいちゃん役の笠智衆がとてもシブかったです。ロケ地は鎌倉周辺が中心で、森田健作は浜辺で竹刀を振ったり、豚を洗ったりしていました(笑)。

Shonan2_2 Shonan3_2 本題の紀行文に入ります。箱根から徒歩ではなくてバスで下山したために時間が余りました。日曜日の早朝、江ノ電経由で東京へ行く計画だったのですが、予定を繰り上げて夕暮れの鎌倉の海を見に行きました。

とりあえず浜辺のロケ地に行ってみようと藤沢から江ノ電に乗ると、稲村ヶ崎駅からは海から離れていく感じだったので、鎌倉高校前駅まで戻りました。でも実際の青葉高校のロケ地は藤沢駅より北側の学校だったそうです。

ワタシが学生時代の頃はサーフィンが人気で、映画「ビッグウェンズデー」がヒットし、多くの若者が湘南に憧れたものです。

でもワタシは部活の登山が中心で、湘南に行く機会がありませんでしたが・・・。

Shonan5 江ノ電にガタゴト揺られながら思ったのは、知的でオサレな乗客が多いなぁ・・ということです。

関西でいえば、阪急電車の西宮市~神戸市東灘区あたりといえばいいのでしょうか、そんな感じでした。

江ノ電もいろいろな車両が走っていて、とくに床が木でできていて、独特のオイル臭のある車両は、子供の頃に乗った近鉄電車を思い起こさせてくれました。

Shonan4 Shonan1

朝から天気が荒れていたせいでしょうか、浜に打ち寄せる波はチューブを巻いていました。

よく見ると、何名かのサーファー達が高波にチャレンジしています。

海のない県に住んでいる者にとって、波が打ち寄せる風景はとても新鮮で、本当に遠くまで旅に来たような気分になります。

Shonan6 七里ヶ浜駅近くで、潮風に吹かれながら、今年最初の海辺の風景を目に焼きつけてきました。

暮れなずむ・・・という言葉をしみじみと味わえた、至福の時でした。

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2009年3月15日 (日)

箱根を越えて その2 -石垣山一夜城址-

Hakone3 前回の記事の続きです。

雨で滑りやすくなった石畳の東海道をこれ以上下るのをあきらめ、箱根からはバスで下山しました。次の目的地は石垣山一夜城です。

板橋バス停で下車し、城址への標識を見つけて早川を渡ります。ここからは標高差250m、距離1500mほどですから1時間もかからないでしょう。

さらに標識通りに三叉路を曲がり、石垣農道に入ります。ここから急勾配の坂道が続くのですが、振り返ると小田原市街と相模湾が俯瞰できました。

Isigaki4_2 雨が上がり、雨具が暑くて鬱陶しくなってきた頃に城址に到着しました。

森の中に入れば、崩れそうな石垣が目に飛び込んできました。このお城は小田原城に立て籠もる北条一族を攻めるために、わざわざ造られたものだそうです。ですから小田原城が陥落したら、お役ご免となりました。

石垣のお城は関東にはほとんどなく、しかも天守まで造られたそうですから、秀吉の財力おそるべしですね。さらに小田原方に食糧が流れ込まないよう、周辺から米などを高値で買い占めたといいますから。

Isigaki2 さてこのお城、思った以上に大きくて、各曲輪も広々としていました。

小田原攻めは持久戦でしたから、その間秀吉は淀君を呼び寄せたり、千利休に茶会を開かせたり、能や狂言などいろいろな芸事をやらせたりしています。

秀吉方は20万近くの兵力で、このお城だけでなく、小田原周辺を取り囲むように包囲していました。さらに伊達政宗も秀吉方につきましたから、北条氏は数万の兵力があっても、もはや勝ち目はありませんでした。

Isigaki3 本丸から見下ろした小田原市街と相模湾です。

市街の中央部、緑濃いところが小田原城ですが、もちろん今の小田原城は、石垣や白壁も江戸時代のものですね。

北条氏の小田原城は土塁が中心でした。

はるか遠くに目を凝らせば、江ノ島三浦半島房総半島が望めました。昨夜来の強い雨で、酒匂川から海へ土砂が流れ込んでいました。

Isigaki5_2 こちらは駐車場近くの菜の花畑です。

今年も春が来たようです。雨上がりに吹き渡る風は、まさに春そのものでした。

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2009年3月14日 (土)

箱根を越えて その1 -山中城址-

Yamanaka3 お水取りが終わると関西は春めく…と言われますが、風は冷たくても、やわらかな陽光にそれを感じます。

さて日曜日に東京で研修がありまして、ただ新幹線で行って帰るだけでは面白味に欠けるので、前日はちょっと箱根~湘南方面に寄ってきました。

最初の目的地は、日本100名城のひとつである山中城址です。

夜行バスで早朝に東静岡駅に到着、JRで三島駅に移動、そして沼津登山東海バスで山中城に向かいました。

午前8時、横殴りの雨が吹きつける山中城址には人影はまったくありません。しかも朝靄に包まれ、荘厳な雰囲気が漂っていました。ワタシは、そこかしこに安らかに眠っておられるであろう御霊にそっと手を合わせました。

Yamanaka4 Yamanaka5
このお城は箱根峠の三島側にあって、小田原城の西の出城の役割をしています。

そして後北条氏の城の特徴である竪堀障子堀の畝がよく残っています。

山城ですから水堀が作れず、また関東は石垣のお城は畿内や西国ほど一般的でなかったようです。

そのかわりに堀に畝を造って、進入しようとする敵が動きにくいようにしています。一方守る側は相手の動きが制限されるため、的が絞りやすくなりますね。

Yamanaka7 本丸など城の主要部分は東海道の北側にありますが、西から東海道を登って攻めてくる敵に対抗しやすいように、岱崎出丸が造られました。

こちらは切り立った土塁に竪畝が掘られていました。左下に東海道が走り、右上の郭内では北条方が守りを固めています。

関東ローム層の土はとても滑りやすいので、容易に登ることはできません。保全のため現在は芝が植えられていますが、当時は表層は土がむき出しだったようです。

兵は武具をつけ、さらに武器も持っていましたから、攻め登ることは困難だったでしょう。

しかし20倍の兵力が相手では、だんだんと体力も精神も消耗していったのでしょうか、秀吉軍に半日で陥落させられてしまいました。

Yamanaka2 岱崎出丸の下部、売店からの道が合流する東海道沿いの目立たないところに、司馬遼太郎の碑がありました。

幾億の跫音(くつおと)が坂に積もり

吐く息が谷を埋める

わが箱根にこそ

関東の入り口であり、東海道の最高地点でもある箱根には、様々な歴史が染み込んでいます。

ワタシの診療所の前の道も国道1号線ですが、これも何かの縁なのでしょうか・・・。

Hakone1 山中城址から箱根峠までバスで移動。ここから石畳を小田原まで歩こうと思いましたが、雨でツルツル滑り、一度手をついてしまいました。チマチマ歩いていたら予定以上に時間がかかるので、箱根港からは再びバスに乗りました。

さぁ次の目的地は、秀吉が小田原攻めのためにわざわざ築いたという石垣山一夜城址です。

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2008年12月14日 (日)

坂越の尾根を歩く

通勤途上のヒマつぶしに、JR西日本の「駅からハイキング」のパンフレットをときおり読んでいます。

で、この冬も青春18きっぷを購入したので、この土曜日に兵庫県の坂越(さこし)というところに行ってきました。

http://www.jr-odekake.net/navi/jr_hiking/info_ekikara.php?pa=2&se=43

Sakositera 坂越は赤穂の外港として栄えた町です。城下町赤穂は干拓地なので、大きな船は入らなかったのでしょうか。

天然の良港である坂越は昔から港として賑わい、赤穂の塩を運ぶ廻船が行き来していたようです。途中で見た坂越小学校の校章は、イカリのマークに「坂」というロゴでした。

http://www.ako-sakoshi.org

JR大阪駅から新快速「播州赤穂」行きに乗れば、1時間半ほどで坂越駅に着きますが、こぢんまりした駅前にはほとんど人影はありません。

自販機はありますが、坂越の町も含め、コンビニはあったかな?という感じでした。行動食はあらかじめ用意しておいた方が無難でしょう。

駅から山の切り通しを経て、坂越の町まで15分ほど歩きます。

写真は茶臼山中腹にある妙見寺観音堂から見た生島です。

Photo ここからさらに背後の山を登っていきます。

宝珠山の稜線に出るとアップダウンの繰り返しになりますが、瀬戸内の風景は疲れを吹き飛ばしてくれます。遠くには家島諸島赤穂の市街地が、そしてうっすらと小豆島も見えました。

12月とはいえ、ほとんど風のない暖かい1日でした。

そしてベタ凪の海面に描かれる航跡にも癒されました。

Aioi 人気度がベスト3に入るハイキングコースとはいえ(ちなみに1位は安土)、京阪神から少し離れたところにあるせいでしょうか、稜線に出ると誰一人として見かけませんでした。

落ち葉を踏みしめ、まだまだ残る紅葉や赤い実を愛でながら、師走の1日を楽しみます。

春にはドウダンツツジが美しく咲き誇る道だそうです。前方に見えるのが相生湾ですね。

Siosai 3時間ほどのぶらぶら山歩きを楽しんで小島という集落に下り、海岸沿いを少し歩くと「しおさい市場」がありました。

小ぶりな市場ですが、地元の名産である牡蠣などが売られていて、しかも思ったよりも多くの人が訪れていてビックリです。冬にハイキングする方が珍しいのかな??

ワタシは牡蠣フライと穴子寿司をアテにして、生ビールを楽しみながら遅めの昼食をとりました。

Sakagura_2 しおさい市場から坂越の町を経て駅に向かったのですが、新快速電車が1時間に1本しかないため、街並み散策もそこそこに、少し早足で歩きました。

それでも千種川の橋からダッシュして、息絶え絶えに電車に飛び乗ったという結末になりましたが。。。coldsweats02

坂越は文字通り、千種川から坂を越えたところにある趣のある町です。

それは路地裏などを少し入ってみるとわかります。

いわゆる漁師町でもなく、城下町でもなく、江戸時代の港町の面影を濃く残していました。

翌日は赤穂城で義士祭がありますが、忠臣蔵は脚色され過ぎて、何となく好きではありません。

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2008年10月17日 (金)

大仙公園&仁徳天皇陵

Photo_2 以前にも記事にしたように、毎年9月から10月の終わりまで、堺市の某専門学校に講義に行っています。

辿る道はJR百舌鳥駅から大仙公園仁徳天皇陵に挟まれた遊歩道です。

夏から秋にかけて、この緑豊かな公園は様々な顔を見せてくれるのです。

Photo_3 この一週間は秋晴れのさわやかな日が続いています。

でも青く澄み渡った空は、講義を始めた頃に見た空と違い、心なしか奥行きが深くなったような感じです。

立ち止まって見上げる空のなんと美しいことか。そして銀杏の葉が少しずつ色づき始めているのに気づかされます。

Photo_4 帰り道は夕陽を背に駅に向かうことになります。

広場では少年達が野球に高じていました。

降り注ぐ日射しはとても優しげで、木々達は長い影を落としています。

Photo_5 仁徳天皇の御陵です。

正面の玉砂利に、松の木も長い影を落としていました。

2週間前には御陵の土手に彼岸花が咲き、1週間前は金木犀が芳しい香りをふりまいていましたが、今はその気配を探すのが難しくなりました。

Photo_6 藻で一面緑色に染まったお堀ですが、気の早い葉は色づき始めています。

講義もあと2回。

歯科医療界の先輩として、今年も彼女らの心に、何か残していければと思っています。

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2008年10月 6日 (月)

山手のドルフィンは・・・

認定医更新に必要なポイント稼ぎのため、この土日は東京bullettrainに行ってました。研修pencilだけでは頭と身体がシンドいので、たいてい自由気ままなひとり旅runを組み合わせていますが、今回は横浜の根岸と、千駄ヶ谷の国立競技場soccerを訪れてきました。

J_3  我々の世代はユーミンハイファイセットで青春を過ごした人も多いと思います。そして彼女たちの歌のおかげで知名度が全国区になったお店restaurantもありますね。それは山手のドルフィンwineです。まぁ正確には「山手」ではなく「根岸」が最寄り駅trainなんですけどね。coldsweats01

お店は高台にあるのですが、マンションが建ち並んできたので、三浦岬方面はわかりにくかったです。

Photo あなたを思い出す

この店に来るたび

坂をのぼって今日も

ひとり来てしまった・・・

Photo_2 山手のドルフィンは

静かなレストラン・・・

Photo_3 晴れた午後には遠く

三浦岬も見える・・・

J ソーダ水の中を

貨物船が通る

小さなアワも

恋のように消えてしまった・・・

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2008年9月11日 (木)

美濃・関ヶ原

前回の犬山城の記事の続きです。

Sekigahara9_2  JR鵜沼駅から高山本線に乗って岐阜へ向かいます。岐阜で鮎か何かを食べようと思いましたが、駅前には目ぼしい店もなく、ふと関ヶ原に行ってみようと思い立ちました。

ちょうど米原行きの新快速電車が来たので、長良川や揖斐川を渡って関ヶ原の古戦場に向かいます。駅には写真のような看板がありました。

Sekigahara3 私が初めてマトモに見た大河ドラマは国盗り物語です。たしか中学生の頃で、それから司馬遼太郎を好んで読むようになりました。

配役は信長高橋英樹秀吉火野正平光秀近藤正臣濃姫松坂慶子でした。ちなみに市の方松原智恵子です。

改札で駅周辺の地図をもらい、まずは三成の陣のあった笹尾山を目指します。田園地帯の中、ゆるやかな登りが続きますが、早足で行けば30分ほどで着きます。ふもとには馬防柵が築かれていました。

Sekigahara7 さらに樹林の中を100mほど登っていけば展望台があって視界が開けます。その奥の森の中には三成の石碑があって、ひっそりと花が供えられていました。

展望台には東軍西軍の各陣地の説明板があるので、それを見ながら天下分け目の戦いをイメージしてみましょう。

まず家康は左手奥に見える桃配山のふもとに陣を張りました。ちょうど伊勢方面から来る道と美濃方面から来る道とが合流するところです。9月15日のことでした。

Sekigahara6 一方、こちらは西軍の陣地です。写真右手の緑濃い山が天満山で、山の手前には長浜に向かう北国街道が、山の向こうには不破の関を経て近江に抜ける東山道があります。

この天満山には島津義弘・小西行長・宇喜多秀家が陣を張りました。

その天満山の向こうに見える松尾山に配置したのは小早川秀秋です。

地形の利を活かして早朝から始まった戦いは、西軍が有利に戦いを進めていましたが、三成の誤算は味方の兵がすべて動かなかったことでしょう。家康の背後にいた毛利秀元は家臣の吉川広家に牽制されていましたし、松尾山小早川秀秋は戦いに参加する気配がありませんでした。

Sekigahara8 それどころか家康から催促の砲を打ち込まれた小早川秀秋は、ようやく昼過ぎに味方である西軍の脇を突きにかかります。そのため形勢が逆転して西軍は大きく崩れていきました。

夕刻には勝負がつき、三成は一度は近江の国へ落ち延びたものの、徳川軍に捕らえられて京都。賀茂川の河原で処刑されます。

そして翌年、家康は征夷大将軍に命じられ、江戸に幕府を開きました。

この関ヶ原の戦いは、戦い以前の事前工作がおおいにモノをいいました。豊臣びいきの関西人は家康のことをタヌキ親父と蔑んで、あまり高い評価しないのはそのせいかもしれませんね。

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2008年9月10日 (水)

尾張・犬山城

Photo_2 昨日は名古屋国際会議場で研修があったので、青春18きっぷのラストは尾張・美濃の旅に使うことにしました。
大阪駅6時22分の快速米原行きを利用すると、米原乗り換えで名古屋には8時37分に到着です。そのまま電車に乗って、国際会議場の最寄り駅(ただしJRでは)の熱田駅まで行きました。
午前中は歯科医師限定でしたが、午後は一般の方も聴講できる講演でしたので、名古屋駅に戻り、今度は名鉄で犬山城へ向かいます。
Inuyama1_3 犬山駅で下車し、城下町の面影を残す街並みを歩いてお城に向かいました。
犬山の町自体はこぢんまりとしていますが、堀跡や町割は昔をじゅうぶん偲ばせます。別に犬がたくさんいたわけではないですが・・・。 (^^;)
ふもとにある神社の境内を通り、ちょっとエッチなご神体に手を合わせて、石畳の坂道を登っていけば大手門に着きます。
Inuyama3_2 木曽川のほとりに立つこのお城の天守閣は、現存するものでは最古のものだそうです。
お城は織田信長の叔父の織田信康によって築かれましたが、その息子は同じ織田でも、反信長勢力だったために攻め落とされました。
Inuyama4_2 その後は城主が何代か入れ替わり、江戸時代になって成瀬家が9代に渡って城主となりました。
天守最上層の手すりに立てば、眼下を日本ライン下りで有名な木曽川が滔々と流れます。
南を望めば、小牧山のはるか向こうに名古屋駅前の高層ビル群が見えます。そういえば本能寺の変後、秀吉がこの城に入って、小牧山家康とにらみ合ったことがありました。
まさに絶景かな絶景かな・・という見事な景色ですが、手すりがかなり低いので、今まで落下事故がなかったのかな??と余計な心配をしてしまいました。
Inuyama5_2 お城から下りたあとは木曽川を渡って、高山本線のJR鵜沼駅に向かいます。川が県境になりますので、愛知県から岐阜県に来たわけですね。
かつて尾張の織田氏と美濃の斎藤氏との間で戦闘が何度も繰り返されたそうですから、軍事上でも重要な地だったのですね。
県境の川で水上バイクを乗っている人を見るにつけ、今は平和な時代だなぁ・・・とつくづく感じました。

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2008年8月24日 (日)

北近江・小谷城

Toraodani 青春18きっぷを使った4回目の旅は小谷城(おだにじょう)です。それってどこやねん?と思われる方も多いと思いますが、福井県との県境に近い滋賀県北部にあるんです。米原と敦賀の中間くらいですかね。

美濃・尾張の領主織田信長は、上洛しやすいように、北近江を支配していた浅井長政と同盟を結び、妹のお市の方を嫁がせました。有名な茶々(淀君)・小督の方(お江与の方・徳川家光の母)・初子の浅井3姉妹がここで育ちました。

米原から北陸本線に入りますが、今は新快速電車で敦賀まで行けるので便利ですね。まずは長浜駅のひとつ先の虎姫駅で下車します。小谷城自体は次の河毛駅の方が若干近いのですが、ここは南方からの遠望を楽しみながら、城跡に近づくことにしました。写真左の虎御前山は織田軍が陣を置いたところで、ちょうど小谷城と対峙する位置にあります。

Ootemonn 馬蹄状の小谷山は2つの尾根筋があって、その尾根に挟まれた部分を清水谷といいます。この平地部に浅井家や家臣達のお屋敷などがありました。最近再建された大手門や、ちょっと城跡とは不釣り合いの小谷城資料館(もとは児童館)があるので、まずはここで下調べをしていきましょう。

上写真、大手門の間に見える尾根筋に城跡が残っています。標高差は300m位ですから、ここから徒歩で1時間弱でしょう。

Kuma2 夏は草ぼうぼうで歩きにくいかなぁ・・と心配していたのですが、草よりもクマの方が気になりました。春に2度ほど出没したそうです。できるだけステッキで音をたてながら登っていきましたが、途中でカモシカ注意とかスズメバチ注意とかの看板も出ていました。小谷山の裏は北陸の山々へと続いていますから、いろんな動物がいるんでしょうね。

徒歩ではなく車で行く場合は舗装された林道を番所跡まで一気に登ることができます(観光シーズン中はわかりません)。

Senjou 番所跡から10分ほどで本丸跡に出ます。しかし足元が悪いところもありますから、できればトレッキングシューズなどで行かれた方がいいでしょう。革靴やヒールで行くと下り道でコケちゃうかもしれません。ちなみに本丸は彦根城の西の丸に移築されたという説もありますね。

写真は本丸跡から見下ろした千畳敷です。尾根上ですが、フットサルなら十分できる広さです。城跡にはサクラやモミジの木がたくさんあるので、春や秋のシーズンにはとてもキレイなんでしょうね。

Anegawa2 尾根道を歩くとところどころで視界が開けます。写真は米原方面を俯瞰したところですが、田園地帯を横切る緑の帯は姉川です。そう織田・徳川軍と浅井・朝倉軍の双方4万の兵が川を挟んで戦ったところですね。

この戦いに敗れた浅井・朝倉軍は小谷城に逃げ戻り、ひとまず戦(いくさ)は中断します。そして武田信玄の病没などで信長包囲網に綻びが生じ、戦局は信長に有利となっていきます。姉川の戦いから3年後、準備万端の織田軍は虎御前山に陣を置き、小谷山に籠もる浅井軍と最終決戦を挑みます。越前から朝倉軍が援護に駆けつけるのですが、暴風雨の中、勢いにまさる織田軍の攻撃にあい、刀禰坂の戦いなどで大きなダメージを受けながら敗走します。織田軍はその勢いで越前の一乗谷ひとつ前の記事を参照してください)まで攻め上ります。そして踵を返して今度は小谷城を陥落させますが、浅井・朝倉軍をわずか10日ほどで壊滅させた織田軍の結束力おそるべし・・・ですね。

落城直前に信長方に引き渡されたお市の方と浅井3姉妹は、今度は柴田勝家のもとに身を寄せることになるんですね。余談ながら、次の領主となった秀吉小谷城を捨て、船運に便利な長浜に新しく城を築きました。秀吉は結局、お市の方の夫の2人とも、討ち滅ぼすことになってしまいます。お市の方は柴田勝家と運命を共にしましたが、その娘の茶々(淀君)秀吉の側室となって秀頼を産み、浅井の血を残しました。

Isigaki 話を城址に戻しましょう。

本丸からさらに尾根筋を詰めていくと、堀切、小丸、京極丸などを経て、最上部の山王丸に辿り着きます。脇道に入っていくと大石垣がありますが、苔むしたそれはもの哀しい歴史を語りかけてくるようでした。

春にこのあたりでクマが出没したらしいので、長居せずに元来た道に戻ります。

浅井氏と家臣達の供養塔のある桜馬場から脇道に入っていくと赤尾屋敷跡がと書かれた標識がありました。

Odanikinoko ここは織田軍に追い詰められた浅井長政が自刃し、29才の生涯を終えたところです。1573年は8月28日(旧暦)のことでした。

ここにも供養塔がありましたので、そっと手を合わせてきました。明日をも知れぬ戦国時代に多くの人たちが必死で生きてきました。観光客がほとんどいない城跡では、その尊い御魂に触れることができたような気がします。

合掌・・・。

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2008年8月17日 (日)

中部北陸自然歩道-永平寺・一乗谷-

Eiheiji2 本日2つ目の記事になります。

今回の主目的は一乗谷の朝倉氏遺跡でしたが、越美北線の次の電車が2時間後ということで、福井の町を昼飯がてらブラついていました。すると永平寺行きの特急バス乗り場が目に入りました。念のためバス停前の本屋で地図を確認すると、永平寺~一乗谷間は直線距離で約10キロほど。待ち時間を持て余していたワタシは、1時間後の電車よりも11時50分発のバスを衝動的に選択してしまいました。

永平寺は中学校の家族旅行以来ですから35年ぶりくらいになります。でもほとんど記憶にありません・・・。

Eiheiji4 拝観もそこそこに12時40分に永平寺前を出発。曇り空でしたが雨の気配もなく、国道364号線をスタコラ歩き出しました。汗をかきかき、ヘアピンカーブの連続する急勾配の道を登りつめると、そこには長~いトンネルが・・・。

Crocsのサンダルだし、トンネルは薄暗いし、思い出した頃にやってくる車の音が気持ち悪く反響するしで、少しビビリながらもトンネルを無事通過しました。

Etizentakada2 歩いているうちに雲が切れて日射しがだんだんキツくなり、疲労度がさらにアップします。永平寺を出て約1時間後に越前高田駅に着きましたが、隣駅の一乗谷駅まで電車を利用しようにも、次の電車が来るのは2時間後です。まぁ何とかなるだろうと足を止めずにそのまま歩きます。

駅近くの標識を見ると、永平寺から6.3キロ・・というのはわかるのですが、一乗谷まで6.8キロと書いてありました。ちょっと意気消沈しつつ、照り返しのキツい道をそのままテクテク歩きます。

Itijoudani1 直射日光の下、ペットボトルを2本空にしながら歩き続け、永平寺からちょうど2時間後に一乗谷の入り口に到着です。一乗谷はちょうど胃の幽門・噴門のように入り口と出口が狭まっているところに石垣や土塁が築かれ、その間が南北2キロほどの小さな盆地になっています。また周囲を取り囲む山々にも砦が築かれていますから、難攻不落といわれていたのですね。

でも織田信長軍と北近江で戦って敗退、朝倉軍はほうほうのていで一乗谷に逃げ帰るも、城下には火が放たれて灰燼と化し、朝倉義景も味方の裏切りにより自刃したのでした。奇しくも1573年は8月の今頃のことでした。

Itjoudani2 Itijoudani2 時刻の勘違いにより、あやうく帰りの電車に乗り遅れそうになりましたが、無事福井駅に到着。

今度は敦賀で旨い海の幸でも食べようかなと思ったけれど、小走りで飛び乗った新快速電車がなんとか座れそうだったので、そのまま帰阪する事にしました。敦賀始発でも結構混むんですね。

行きは湖西線回り、帰りは長浜回りでしたが、琵琶湖のあちこちにはいろいろな思い出が詰まっていて、見飽きません。

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2008年7月29日 (火)

天空の城 但馬・竹田城

Takedakumo  前回の記事の続きです。今度は竹田城を詳しくレポしてみました。この城址は日本のマチュピチュとも言われていますが、まぁインカの遺跡もこのような感じかもしれません(行ったことないけど・・・)。壁紙になるような写真はこちらをクリックしてください。

播但線・竹田駅で下車し、改札口を出て左に進み、線路の下を流れる水路に沿ってガードをくぐると登山口に出ます。このあたりは武家屋敷があったところで、今はお寺が数軒並んでいます。お寺の塀をよく見ると、銃眼と呼ばれる穴があいています。

登山口から天守跡まで約1kmの山道ですが、夏草がまとわりつくところもあるので、半ズボン等は避けた方がいいでしょう。

この日は曇り気味でしたが、やはり真夏。汗を拭き拭き、バテつつも30分ほど歩けば城跡の入り口にたどり着きました。

Takeda_2 ここで車道と合流しますので、先ほどまでの山道よりはるかに歩きやすくなり、風も吹き通るようになります。

大手門跡を過ぎ、北千畳に立てば北方の視界がぱっと広がり、和田山の市街地が俯瞰できます。ほらあれが大江山、あの光るのが円山ですね。

Takeda_4 城跡は現在は石垣しか残っていませんが、適度に草が刈り取られているので快適な散策路となっています。ほどなく天守跡に到着し、石垣にかかる梯子を登れば、播磨の国方向の素晴らしい展望が広がります。

円山川に川霧が発生すれば、冬場は竹田城が雲海に浮かぶことがあるそうです。ワタシがここへ来たのも、そのような写真を新聞などで見たからなのでした。

Takeda_5 この山の上のお城は室町時代から存在し、応仁の乱の際は、但馬の守護大名の山名氏の支配下に置かれていました。敵対する赤松氏はすぐ南側の播磨の国の大名ですから、このお城は軍事的にも重要だったわけです。

さらに丹波へと続く道もふもとを通りますから、丹波や但馬に進出しようとする織田氏毛利氏の勢力がぶつかり合うところでもありました。

Takeda5 そして秀吉が天下を取ったときは、その弟の秀長が城主になったこともあります。今も残る壮大な石垣はその頃に15年もの歳月をかけて築かれ、過酷な使役に駆り出された近隣の農民達は悲鳴をあげたそうです。

ところが徳川の時代になると廃城にされてしまいます。まさに昔の光、今いずこ・・・ですね。ちなみに荒城の月のモデルは、同じ竹田でも豊後の国の竹田城なのだそうです。

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2008年7月21日 (月)

関(せき)をしても一人旅 その3

Dasi 関宿の夏祭りの特集です。

前回&前々回の記事にも書きましたように、青春18きっぷを使って関宿の夏祭りを見に行きました。関西本線JR関駅へはJR奈良駅からだと約1時間半で行くことができます。ただし1時間に1本のローカル線ですので、事前に時刻表をしっかりとチェックしておいてくださいね。

写真はお祭りの主体となる山車ですが、目一杯頑張ったんだけど・・・という意味の「関の山」という言葉は、この関の山車から来ているそうですね。へぇ~知らなかった。

Mikosi1 初日に関神社のご神体を御神輿に載せて、西の追分近くの御旅所に移します。そして翌日に神社に戻すのですが、その道中は若い人が中心になってお神輿を担いで、町中を練り歩きます。

街道筋の一軒一軒の家を訪問し、しかも勢いよく御神輿を回転させながらですので、かなりの重労働でしょうね。しかもそれぞれの家の玄関先で、かなり長い口上を述べながらですから。。。

Mikosi2 あまりの暑さに見ている方もバテバテでしたが、御神輿を担いでいる方はもっとバテバテでしょうね。

地元の方がホースで散水して、少しでも涼しくなるようにしてあげてました。

Mikosi3 地方へ行くたびにいつも思うのですが、現在の日本の社会構造は進学や就職などで都会に出ていくと、どうしても故郷に残りにくくなります。

液晶テレビで有名な亀山工場がすぐ近くにあるこの地はまだ恵まれている方かもしれませんが、仲間達と共同作業を通じて語り合えるお祭りは、おらが町の誇りを養うのにはとても効果的なのかもしれませんね。

若者達は皆イキイキと輝いていました。

Hayasi お旅所のあった西の追分から東の追分に戻ると、そこでは子供達がお囃子を披露していました。

残念なことにメインの夜の部は見ていないのですが、山車を勢いよく回転させるので、かなり勇壮なお祭りのようです。リンク先のポスターの写真がピンボケなのは、山車が回転しているからなんですね。

昼のお神輿も一歩間違えると全員が転倒する可能性もありそうでしたから、それなりの準備と心構えが必要なんでしょうね。

故郷のお祭りは、いつまでも残しておきたい日本の文化のひとつです。

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関(せき)をしても一人旅 その2

Seki6_2 東海道五十三次の47番目は三重県の関宿です。ちょうど鈴鹿峠の東側にあり、かつては交通の要所として賑わったそうです。

意外と知られていないのですが、国道1号線は旧東海道に沿うように走っているため関ヶ原を通りません。ただその険しい地形ゆえに鉄道や高速道路などは、名古屋から西は北回りの現在のルートを取っているようです。

Seki5  当診療所の前の道も国道1号線なので、やはり東海道の街道筋には親近感がわくのですが、 よく考えてみれば東海道は京都三条大橋が終点でしたね。

さてその東海道ですが、宿場町全体が当時の名残をとどめているのは、ここ関宿くらいなのだそうです。写真は街道筋にある銀行の建物です。

Seki2_2 西の追分から東の追分まで続く約2kmが保存地区に指定されています。夏らしい空が広がる下、汗をふきふき、この町並みをのんびりと往復してきました。

こんなクソ暑い日によく行くなぁ・・と言われそうですが、実はこの土日に関の夏祭りがあったからなのでした。

祭りに関しては-その3-でまた報告しますね。

Seki3_2 上記の銀行もそうですが、町の人が誇りを持って、旧き町並みを残そうとしているように思えました。もちろん行政もおおいに協力しているとは思いますが。

写真は途中で見かけた薬局です。まるで「三丁目の夕陽」の世界ですね。

Seki4_2 西の追分を過ぎると分岐点があります。本道を真っ直ぐ行けば坂下宿を経て鈴鹿峠に至るのですが、左へ行けば伊賀の国を経て大和の国に続きます。ちょうどJR関西線や名阪国道のルートにあたるルートですね。

石の道標には「左 伊賀・大和みち」と書かれてありました。  安政の大獄で罪人として萩から江戸に送られた吉田松陰は、どのような思いでこの道を歩いたのでしょうか。。。

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2008年6月24日 (火)

門司港レトロ

Moji5 旅の話はまだまだ続きます。前作もお見落としのなきよう。

さて下関から関門トンネルをくぐって対岸の門司に渡ります。ここで門司港行きの列車に乗り換え。

お目当ては大阪商船ビルの2Fにある「わたせせいぞうと海のギャラリー」です。

Moji1  今では門司港はメインルートから外れていますが、かつては繁栄した港でした。門司港駅周辺にはそのころの名残の建物がたくさん残っていて、当時を偲ぶことができます。

詳しくは「門司港レトロ倶楽部」のHPをご覧下さい。

Moji2 わたせせいぞうは名のしれたイラストレーターですが、30年ほど前に出てきたときはちょっとしたブームを引き起こしました。

まず絵がキレイで、美術的な知識に疎い素人にもわかりやすく、そして惹きつけられるものがあります。

そしてとってもお洒落です。

Moji3

その頃のワタシは国家試験に通って歯科医師の資格を得ていましたから、ちょっとした余裕があったのかもしれません。

わたせせいぞう「ハートカクテル」は飽きずに何度も読んでいました。いや読むというよりも、イラストをゆっくり鑑賞していたのでしょうね。毎年趣向をこらして作る年賀状も、彼のイラストを真似して書いたことがあります。

港の倉庫群に行くと、彼のイラストが描かれた壁画があります。

Moji4 お洒落といえば、片岡義男の小説もよく読んでいました。今でも50冊ばかりの文庫本を捨てずに残してあります。

2人の作家に共通する点は、女性がとても美しく魅力的に描かれていたことでしょう。そして彼女たちの名前は「美」の字が入り「子」で終わる3文字のパターンが多かったですね。

そういえばウチの細君も「子」で終わる3文字の名前で、彼のイラストに出てくる女性に似ていました・・・。

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2008年6月23日 (月)

花の町・萩

Hagiie3 前回の続きです。あわせてお読み下さい。

の町が魅力的なのは、町そのものの文化が成熟しているからではないでしょうか。ケバケバしい看板や広告の類はほとんど見かけません。

写真はとある萩焼の店先ですが、花瓶に挿された花に店主の気配りを感じ取ることができますね。

Hagiie5 Hagidobei 左写真は長屋門です。このように今も残る城下町地区には趣のある漆喰の塀や土塀が続いています。

ここはとくに観光名所が並んでいるわけでなくて、地区の住民の方が普通に生活を営んでおられます。そのお手入れの行き届いた庭や咲き誇る花を見つける度に、しばし足が止まります。

Hagidobei2

Hagiaisai この町の築地塀は何という名前なのでしょうか、、上に行くほど幅が広くなる独特の形をしています。京都などの築地塀とは対照的ですね。

Hagiie4_2 白い築地塀に混じって、ワタシが育った奈良の町を思い起こさせるように、ところどころに土塀があります。

その色は萩焼を思い起こさせますし、また雨に打たれた塀からは、素朴な土の香りが漂ってきます。

Hagimikan_5 Hagimikan2_3

奈良の町と違うのは、萩は夏みかんの町であるということでしょうか。でも思わず手を延ばそうとしている自分がいましたが・・(笑)。

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アンノン族が目指した城下町・萩

Hagiie1 昔々アンノン族と呼ばれる若者がいて、北海道、信州・清里萩・津和野などを旅していました。ワタシもその風潮にならい、学生時代に北海道の山などを3回ほどウロついたことがあります。日本海まわりの急行列車と青函連絡船を利用しましたから、1回の旅には10日ほどを要しました。

一方、萩・津和野の方は憧れることはあっても、一度も足を踏み入れたことはありません。ちょうどこの土日に福岡で学会があったので、ちょっと寄り道がてら、萩行きの夜行バスに乗り込みました。

Hagiie2 は毛利藩の城下町ですが、中国8ヶ国を支配した毛利氏も、豊臣方についた関ヶ原の戦いの後は領土を2ヶ国に減らされ、居城も広島から日本海側の辺鄙なに追いやられます。反幕府のパワーは長年の不満の蓄積によるものなのかもしれません。

交通アクセスの問題が大きくて、今までなかなか行けなかったですが、夜行バスの利用とはいえ大阪からは12時間もかかります。

Hagijo 徳山、防府、山口を経由して、朝の9時過ぎにようやく最後の峠を越えると、どんよりとした雲が立ちこめる日本海が見えてきました。コンビナート群が屹立していた瀬戸内海側と違い、こちらは文明的なものがあまりありません。でも高度成長期には、その良さを求めて多くの若者がこの町を訪れたのでしょう。

バスセンターから西にのんびり30分も歩けば、萩城址に着きます。梅雨に煙る萩の城下町は、とても懐かしく落ち着いた佇まいでした。

Hagiyouth 城址のすぐ近くには萩ユースホステルがありました。

ユースホステル自体もとても懐かしい存在で、ここ30年ほどは利用した記憶はありませんが、昔々多くの若者がこのユースでもいろいろなことを語り合ったのでしょう。ギターの歌に合わせて宿泊者全員が歌うことなど、個人主義が発達した今では、すっかり廃れてしまっているのでしょうが・・。

Hagiie6_2 町の西はずれにある城址から東の山裾にある松陰神社に向かって、のんびり1時間ほど歩きます。小さな町ですから、急ぎ足なら3時間もあれば一周できそうです。12時過ぎに東萩駅を出る山陰線に乗りましたから、今回の滞在時間は3時間足らずでした。

途中で自転車の女子高校生の集団に追い抜かれました。彼女達は卒業するとどのような進路を取るのでしょう?の町に残るのでしょうか、それとも都会に出ていくのでしょうか?過疎に悩む日本の地方都市の現実が見えてきます。

Shoukasonn 今回の行きの目的のひとつは、松下村塾(しょうかそんじゅく)に行くことでした。日本海側の小さな城下町の郊外の、さらにこの小さな八畳間でのわずか1・2年ほどの講義によって、明治維新の原動力となる多くの若者が巣立っていきました。

その源になったのは、安政の大獄で処刑された吉田松陰という、日本の将来を考え続けた人でした。

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2008年4月27日 (日)

一日回峯(峰)行

Photo 時々参加している毎日新聞登山ツアーに「千日回峰行のコースを歩く」というのがあって、この土日に参加してきました。比叡山延暦寺の千日回峰行といえば酒井雄哉師が有名ですが、今回先導していただいたのは、平成6年に満行された上原行照師です。厳しい修行をされてきたと思えないほど、とても穏やかな方でした。

写真は明王堂から見た浜大津あたりの俯瞰です。宿坊から見える夜景は宝石を散りばめたようにキレイでしたが、ここは山中の修行場ですから、手の届かない遠い世界のように思いましたね。

そうそう、毎日新聞旅行が主催する次のツアーは9月6日だそうです。

千日回峰行(Wikipediaより)

・・・行者は途中で行を続けられなくなったときは自害する決まりで、そのために首をつるための紐と短刀を常時携行する。頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちである。回峰行は七年間にわたる行である。

無動寺谷で勤行のあと、深夜二時に出発。真言を唱えながら東塔、西塔、横川、日吉大社と二百六十箇所で礼拝しながら、約30キロを平均6時間で巡拝する。

700日目の回峰を終えた日から堂入りが行なわれる。無動寺谷明王堂で足かけ九日間(丸七日半ほど)にわたる断食・断水・断眠・断臥(「臥」とは、横たわること)の行に入る。入堂前に行者は生き葬式を行ない、不動明王の真言を唱え続ける。出堂すると、行者は生身の不動明王ともいわれる大阿闍梨(だいあじゃり)となり、信者達の合掌で迎えられる。これを機に行者は自分のための自利行(じりぎょう)から、衆生救済の化他行(けたぎょう)に入り、これまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60キロの行程を100日続ける。7年目は200日ではじめの100日は全行程84キロにおよぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30キロの行程に戻り、千日を満行する。この行を終えた行者は延暦寺の記録では47人である。またこの行を2回終えた者が3人おり、その中には現存の酒井雄哉大阿闍梨も含まれる。

Photo_5

阿闍梨さんといえば頭に一風変わった笠を載せておられますが、これは蓮の葉が開く前の状態なんだそうです。「じゅんさい」をイメージしていただいたらわかりやすいですね。

一汁一菜の夕食はシンプルなのにものすごく美味しくて、身体の隅々までその栄養がいくような感じでした。今、食育が言われています。「いただきます」に始まり「ごちそうさま」で終わる食事ですが、それをテレビなど見ずにしっかりと味わうという行為が現代人に欠けているのではないでしょうか。なお上原師は最後に沢庵とお茶で、お箸や食器の内面に付いているものを丁寧にぬぐって、最後の一滴までいただかれていました。

その後宿坊で12時まで仮眠し、夜中の1時より明王堂前で最初の礼拝の後、比叡山中を歩きます。ところどころで石仏や祠に手を合わせたり、般若心経を唱えたりしながら、夜道を黙々と進むのですが、先にあの世に旅立ってしまった大切な人たちが、まるで背後に付き添ってくれているかのような不思議な安堵感がありました。

横川から日吉大社に下りる頃、夜がしらじらと明け始め、漆黒の闇がまばゆい新緑の風景へと少しずつ移り変わっていきます。あ~自分は大自然に生かされ、その一つのパーツなんだなぁ・・としみじみしながら歩いてました。

Photo_6 坂本で小休止の後は、今度は登り道になります。25名の参加者はほとんど落伍することなく、黙々と登っていきます。

そして歩き出してから7時間弱でスタート地点の明王堂に戻ってきました。仮眠の時間もほとんど寝られなかったので徹夜状態でしたが、心地よい疲労感で満たされていました。

途中でにわか雨に遭いましたが、お天気には恵まれて快適な歩きでした。でも行者さんは豪雨も暴風の時も行を続けられるのですね。もちろんゴアテックスなどの気の利いた装備なんてありません。

J 最後のお勤めを終えた後、皆それぞれ上原行照師と記念撮影です。虚と実、闇と光、肉体と精神、山川草木悉仏性・・・、いろいろなことが頭をよぎった半日でした。

自分の道を歩み、それを毎日コツコツ繰り返すという、できそうでできない当たり前のことに気づき、あらゆるものに命が宿り、夜はいずれ朝になるという自然界の法則が再認識されたように思います。

Photo_8次の阿闍梨さんを目指して今も修行中の方がおられ、昨夜も数珠で頭を撫でてもらいました。その方が使われたのでしょうか、宿坊の前のお堂に、使い古された草履がたくさんぶら下がっていました。このお堂は親鸞が学問に励んだところでもあるそうです。

叔母が大津に住んでいて、昔は亡き母とよく遊びに行きました。その思い出の残る京阪京津線に乗りたかったので、帰りも再び山道を下りて坂本に戻りました。

これで30キロ以上歩いたことになります。う~ん明日は筋肉痛が恐ろしい???(笑)

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2008年3月 4日 (火)

美人は3日で飽きるけれど・・・

ブ●は見慣れてくる・・・という失礼な言い方rockがありますが、平城遷都1300年祭のマスコットを初めて見たときはビックラこきました・・・。

Sikao 作者東京藝術大学・大学院の教授で、童子の彫刻で有名な方なのだそうです。でも写実的な彫刻と、ゆるキャラのデザインとはビミョーに路線が違うような気がしないでもないですが・・・。

協会のホームページによると、平城遷都1300年祭に多くの方々にご来場いただくため、記念事業の魅力やメッセージを発信するという大切な役割を担い、これから至る所に登場します。。。らしいです。

多くの人がキモい・・・何か違和感がある・・・とか言って問題になっているのに、上記のような大切な役割が果たせるのでしょうか? 

Photo_2 いえワタシも以前の記事に書いたように、ひこにゃんに会いに彦根まで行ったクチです。しかも帰ってからもひこにゃんグッズを探し出して、左のようなファイルをネット購入しました。ちょっとしたプレゼントやお返しに喜ばれそうな気がしたので。

ですから、どういうキャラがウケるのかは何となくわかるつもりですが、この童子も見慣れてくると愛着が湧いてくるのでしょうか? そういえば何となくキモいからキモかわいいに見えてきましたsad

と思っていたら、連日テレビにも取り上げられているみたいで、あちこちで関連記事を見かけます。これってスゴイ宣伝効果ですよね。ひょっとしたら某広告会社は計算づくで狙っていたのかも??(笑)

それと急に脚光(マイナスの方ですがww)を浴びたので、作者の先生も、県の総務部長もその対応でお疲れのようです。まぁここぞとばかり便乗して叩くヤカラ(大抵は匿名)も多いですから、彼らも逆に被害者なのかもしれませんが。。。

Tedukasikao ミクシィにも「マスコット白紙撤回」というコミュがあったので入会してみました。そしたらバンバン投稿が舞い込んで全部読み切れませんwww。てかオフザケで投稿するケシカラン奴も多いんですけども。。。ここでも管理人さんの苦労に同情してしまいます。

上は拾いモンの画像です。手塚治虫「三つ目が通る」は好きなマンガだったので、贔屓目かもしれませんが、角がフィットしているような気がします。これならグッズ買いますでぇ~!

Photo_3 で、左写真はこれまた拾いモンの画像ですが、着ぐるみになったらこうなるという見本です。いやぁ子供達の人気者になって、グッズがバンバン売れそうな気配が・・・wwww。

というより、逆に悪ガキに石でもぶつけられたり、角を折られたりする確率の方が高いんでないの?wwww。そしたら着ぐるみの中の人はたまったものじゃないでしょうwwww。

Pagoワタシが住んでいる斑鳩町のゆるキャラはパゴちゃんといって、斑鳩の里の塔が合体したものです。印鑑証明のカードにもイラストがありますし、何かの記念でもらったぬいぐるみもあります。

パゴちゃんの名前はパゴダから来ているんですね。

でも柿ってフツーはヘタの部分が頭と違うのかなぁ?? となるとパゴちゃんはお尻に塔を乗っけているのか??? とイランことまで考えてしまった一日でした。

Napo ついでに載せますが、こちらは奈良県警のマスコット「ナポくん」です。

奈良の鹿は奈良市限定なんですが、けっこう県内全域でも地道に活躍していて、子供達のウケもいいみたいですよ。

てなことで、傍観者の分際で勝手気儘に書いてしまいました。穏便な解決と、1300年祭の盛会を祈っております。

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2008年2月25日 (月)

冬の上高地

Photo_14 前回の飛騨高山の記事の続きです。写真はひるがのSAから見た加賀の白山です。出発日は天気に恵まれ、バスの車窓からは伊吹山白山などの白い山なみや、郡上八幡白鳥の町の風景を楽しむことができました。

休日の過ごし方に原点というのがあるならば、ワタシの場合は中1の時の上高地への家族旅行に辿り着くのかもしれません。それは家族旅行に登山らしきものを組み込んだ最初で最後のものでした。親父が自分用には黄色、ワタシ用には紺色のリュックを心斎橋そごうで買い求め、それを担いで新穂高ロープウェイに乗って少し稜線を歩いたり、その翌日に上高地の遊歩道を散策したりしました。そこには河童橋からの穂高連峰の美しさに感動し、夢中になって写真を撮っていた少年がいました。また中学の修学旅行が八ヶ岳(天狗岳)登山でしたが、それが人生初の雲海上の世界でした。そこでも信州の大自然に感動し、一時は信州大学に行きたいな。。。とも思っていました。

Photo_15 そんな経験がきっかけなんでしょう、大学でのクラブ選択はワンダーフォーゲル部です。でも父親のリュックの3倍ほどはあろうかというキスリングを買わされて行った錬成登山や夏山合宿が想像以上にキツくて、人一倍体力のなかったワタシはついていくのに必死でした。

写真は大学1回生の時に登った北海道・大雪山系です。50kg近い荷物を持って夜行列車に揺られ、日本のあちこちの山を渡り歩きました。

Photo_33 今ではお手頃の山にしか登っていませんが、冬の上高地にずっと憧れていても、なかなか行く機会がありません。今回は日程の都合がついたのと、運良くキャンセルが出たのとで、毎日新聞旅行の「静寂の上高地」ツアーに参加してきました。

前日は平湯温泉泊まりです。この日は快晴で、前述の加賀の白山だけでなく、乗鞍岳笠が岳も仰ぐことができました。

Photo_17 Photo_18 上高地は11月中旬から4月中旬まで釜トンネル入り口が閉鎖されるので、当然旅館もお店も営業中止です。そして観光客のいない静かな世界になります。

登山者は1.2kmの薄暗い急勾配のトンネルをくぐり抜けて、雪の上高地に向かいます。

Photo_28 Photo_29車道を歩くとはいえ、1m以上の雪に覆われていますから、そのままでは膝までズッポリとはまりこんでしまいます。そこで登山者はスキー(クロカン・テレマークなど)か、スノーシュー(かんじき)を着用します。

今回は24名ほどが参加し、各自それぞれのペースで、河童橋までの6kmを往復し、5時間後に出発地点のトンネル入り口に戻るというスケジュールです。

Photo_22 Photo_23この日はどんよりとした曇り空で、穂高連峰を仰ぐことはできませんでした。大正池の向こうに岳沢の下部がわずかに見え隠れします。

ワタシは学生時代から愛用しているクロカンの板を持参しての参加でした。

Photo_31 Photo_32 1階の半分が雪に埋もれた上高地帝国ホテルです。一度は泊まってみたい・・・と女性に人気のこのホテルも、冬期では口説きの小道具heart04にはなり得ません(笑)。

往路は順調に上高地バスターミナルまで板を滑らせることができましたが、河童橋手前から急に天候が荒れてきて、あわてて冬山装備を着用しました。 とにかく風と雪が強くて目を開けることができません。その先からは先鋭クライマー達の世界です。

Photo_26 Photo_27 河童橋からの復路はできるだけ集団になりました。
装備が不十分な冬山初心者の方にとっては、トレースがすぐに消えてしまう6kmの復路はとても長く感じられたでしょうね。

山をナメてはいけません。ワタシもメンドくさがらず冬山用装備を用意して正解でした。 風がおさまっている時に撮影した写真ですが、30年前の映画「八甲田山」の雪中行軍を思い出します。

全員ハナ水を垂らしながらも(笑)、集合時間までに無事にバスまでたどり着き、平湯温泉で疲れを落としました。ところが帰りの高速道路は雪で渋滞、またまた疲れがぶり返しました。

この日と翌日の北陸や北日本は大荒れの天気だったようです。奈良に帰っても、今年何回目かわからない降雪&積雪がありました。

2日たった今、ストックを持っていた腕の筋肉痛に苦しんでいます。sad

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雪の飛騨高山

毎日新聞旅行社の「静寂の上高地」という登山ツアーに参加してきました。その途中で昼食と観光を兼ねて、雪の飛騨高山にも寄り道してきました。アンノン族?だった高2の春休み以来の高山ですが、あの頃と同じように落ち着いて、どこか懐かしい佇まいの街でした。

Photo Photo_2

このあたりは昔の街道筋で、富山からブリを運んだので「ブリ街道」とも言うそうです。
若狭から京都へ通じる「鯖街道」みたいなもんですね。
でも同じ街道筋でも、国分寺通りをはさんだ向こう側は、
無機的なグレーの電柱と空を横切る電線が、情緒を台無しにしていました。

Photo_3 Photo_4 高山の町には造り酒屋が多くて、馥郁とした香りがあちこちで漂います。そのうちの一軒で搾りたてのお酒をよばれてきました。

親父が下戸だった影響で、ワタシも晩酌の習慣がありません。晩ご飯はゴハンと一緒に食べないと物足りません。

ですのでお酒や肴についてはウンチクがないのです。どうしても雰囲気で選んでしまいます。

Photo_5 Photo_6 ここも造り酒屋です。煉瓦の煙突がなかなかイイですね。

店先にはこのような感じで、それぞれの蔵元のお酒が売り出されています。

そのような蔵元が三之町にも何軒かあるので、お酒好きの人にはたまらないでしょうね。

Photo_7 Photo_8

ここは「うさぎ舎」さんというお店で、店内の奥深くまでウサギグッズが所狭しと並べられており、その量に圧倒されました。

まぁ飛騨地方のマスコットは「さるぼぼ」らしいのですが、ワタシ的にはイマイチかな・・。

Photo_10 Photo_11 2時間ほどの町巡りでしたが、なかなか写真の被写体も多く、充実したひとときを過ごすことができました。

友人には、ブログネタにするからには土産物くらい買って地域に貢献したれよ~と言われましたが・・・(汗)。

Photo_12 やはり美しい街並みは、建築デザイナーさんなどの力が必要なのでしょうね。秩序のない看板や建物が多い昨今、ヨーロッパのように古い街並みを残す文化が日本にも根付いてほしいと思います。

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2008年1月15日 (火)

早朝の横浜散歩

認定医更新のための単位取得もあって、成人の日は東京・都市センターホテルで研修を受けていました。いつも東京に来るときはサッカー観戦か、隠れた名所歩きor山登りなどを組み合わせて、時間と旅費を有効に使っているのですが、今回は横浜早朝散歩を組み込んでみました。というのも、先日自宅近くの「法隆寺バスセンター」からも横浜行きの夜行バスが出ていると知ったからです。

Photo Photo_2 バスはまだ薄暗い時間に横浜駅東口に着きます。防寒対策済みなので臨海パークから日の出でも見ようと、テキトーにみなとみらい方向に歩いていきました。

写真はリンゴを切ったような形でおなじみのインターコンチネンタルホテルです。その前の桟橋からはベイブリッジが望めました。ふと手すりに目をやると何やら落書きが・・・。ここで愛を語らったであろうユウタ君&ルミコちゃんのカップルはまだ続いているのでしょうか? (^^;)

Photo_3 Photo_4 この日はあいにくの曇り空で、朝焼けに染まる空を見ることはできませんでした。まぁそれも良しです。

ホテルの隣は横浜国際会議場です。入り口にあるステンドグラスがとてもキレイでした。

Photo_5 Photo_6 さらに隣りの2万㎡もある巨大な建物は展示ホールだそうです。朝の冷え込みがキツかったのと、すでに入り口が開いていたのとで、中に入ってお弁当を広げました。コカコーラの看板を見ていると、何かこうアメリカの一都市に来ているような錯覚を覚えます。直線が美しく交差しているガラスの壁面の向こうには、横浜港の新しいランドマークでもある観覧車が望めます。

Photo_7 「みなとみらい」と名づけられただけあって、パシフィコ横浜の周辺には高層マンションが建ち並んでいます。

それはまるで小さいときに読んだマンガの中の未来都市のようでした。その無機質さがいいか悪いかは別として・・・。

Marinostown Marinos2_2 横浜駅に戻る途中でマリノスタウンに寄り道。その名の通りJリーグの横浜Fマリノスの練習場&ショップなのですが、駅から近いのでサポーターも行きやすいでしょうね。

でもすぐ近くの歩道は大きく陥没しているところがありました。これでは再工事せんとダメやろうと思いますが、責任の所在はどこにあるのかな?と余計な心配。。。。

埋め立て地とかは地盤沈下とかが起こりやすいのでしょうか? となると先ほどのパシフィコ横浜の建物群は大丈夫なんだろうか? (^^;)

横浜駅からは東急に乗り、渋谷経由で永田町が最寄り駅の研修会場へ行き、夕方まで有意義な講演を聴いてきました。

地下鉄では景色が見られないので、帰りは麹町を通ってJR四谷駅までぶらぶらと歩いていきました。

Photo_10 これは上智大学聖イグナチオ教会です。で、外堀との間の通りをソフィア通りというそうです。そういえば大学受験の時にお世話になった「試験に出る英単語」「philosophy」の説明のところには、上智大学はソフィア大学ともよばれる・・・と書いてありましたね。そういえばウチの息子もそろそろ大学受験に向かっていく年齢です。どうしても自分の受験の頃のツラい思い出とダブります。

奈良に住んでいると自然と仏教に親しんでしまうのですが、この日は礼拝堂に行って清らかな気持ちで祈りを捧げてきました。

Photo_11 四谷見附橋から振り返って見た上智大学です。冷え込んでいく東京の町も、それはそれで趣がありました。何年か経ったあとの寒い日に、ふと今日の横浜東京の風景がよみがえるのかもしれません。

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2007年12月29日 (土)

俺が昔、夕焼けだった頃・・・

弟は小焼けだった。。。親父は胸やけで、おふくろはしもやけだった・・・。

「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ~」と松鶴家千とせが漫談で言ったのは、かれこれ30年ほど前になるのでしょうか。若い人には「何のこっちゃ?」だと思いますが。。。

さて本題に入ります。

今年もあと2日で暮れようとしていますが、2007年最後の記事はブログで使った「夕焼け」写真特集で締めくくりたいと思います。写真はかなり眩しいですので、画面から離れてお読み下さいませ。

Photo まずこのブログで最初に登場したのが神戸沖の夕陽です。例えば神戸空港からですと真西に明石海峡大橋がありますから、それをシルエットにした夕陽はとてもキレイでしょう。あるいは「ルミナス神戸」という遊覧船に乗るのもオシャレかもしれません。

Photo_2 これは大東市の野崎観音です。四条畷駅から飯盛山に登り、大阪平野を眼下に見ながら野崎観音に下りてきました。

大阪平野はもともと上町台地が堰堤のような形の湖(河内湖)あるいは低湿地帯でしたから、ほとんど平坦になっています。ですから生駒山系から西を見ると、六甲山系まで遮るものがありません。ワタシが小学生の頃、近鉄奈良線の車窓からは、上町台地に立つ大阪城が際だった高さを誇りながら見ることができましたが、最近は高層ビルに押されて、探し当てるのが難しくなりました。

Photo_3 Photo_4

斑鳩三塔のひとつの法起寺三重塔です。法起寺周辺は田園地帯ですので、夕陽の写真を求めて多くの写真家が集まります。夏の終わり頃からはコスモスの花が揺れだして、ひときわ情景を盛り立ててくれます。

Photo_5 Photo_6 平屋だった法隆寺駅も階上駅に建て直されました。そのせいかどうかわかりませんが、夕陽に巡り会えるチャンスが増えたような気がします。あるいは自然と空を見上げるようになったからかもしれません。

Photo_9 猛暑といわれた8月に鳥取へ行ってきました。鳥取の海でワンゲル部の後輩としばしの旧交を温めた後、世界陸上開催により長居スタジアムを追い出されたセレッソ大阪は、鳥取バードスタジアムでもホームゲームを行っていました。

昼過ぎには激しい雷雨があったのですが、大気が洗浄されたのでしょうか、全天が真っ赤に染めあがる夕焼けに遭遇しました。

Photo_7 この9月に安倍さんが退陣されましたが、認定医を取る関係で夏から秋にかけてよく東京まで研修に行っていました。

研修帰りに赤坂から有楽町まで歩いていたとき、国会議事堂の背後に日が沈もうとしていました。次は麻生さんがライジングサンになるんだろうと、その時は思っていましたが。。。

Photo_10 Photo_11

奈良市に住む人間にとっては、夕陽=生駒山でしょうね。ところが二月堂まで来ると、生駒山の前に東大寺大仏殿の巨大な屋根が立ちふさがります。

日が沈む頃、多くの鳥が屋根の上に集結してきます。近づいて甍を見上げると、それはおびただしい数のカラスでした。確かに夕焼けとカラスはつながりますが、あれだけの数のカラスを見たのは初めてでした。

Photo_16 Photo_17

お水取り(修二会)で有名な東大寺二月堂です。

どんな言葉も呑み込んでしまいます。

Photo_19 Photo_20

平日は20時過ぎまで診療していますし、また診療所もほとんど窓がないので、夕陽を見る機会は土日くらいしかありません。ところが水曜日は午後から休診にしているので、たまに通勤電車から夕焼けを見ることがあります。

左写真は土曜日の夕方、大阪へ研修に行くときに大和路線の大和川鉄橋上で撮ったもの、右写真は水曜日の夕方、自宅に帰る途中、環状線の安治川鉄橋上で撮ったものです。どちらも携帯の写真なのでピンボケですが、夕焼けは一日の終わりをしみじみ感じさせてくれますね。。。

Photo_21 ところで夕焼け小焼けの「小焼け」って何なんでしょうか?(笑)

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2007年12月24日 (月)

Volvicの風景を求めて・・・

Volvic 飲料水Volvicには、火口湖と美しい緑に恵まれたフランス・オーヴェルニュ自然公園のキレイなイラストが描かれてます。またこのHP「About Volvic」をクリックすると、親しいあの方にグリーティングメールが送れるという、そんな粋な仕掛けもあります。

というわけでクリスマス連休に、海の向こうの地に発作的に行ってきました。ホンマか?? (?_?)

Photo 1週間前から天気予報を気にしつつ、また南国とはいえ、標高1700mの12月の山ですから、寒さにも雨にも耐えられる、それなりの装備を揃えていきました。

山行きで一番左右されるのは当日の天候です。快晴の穏やかな日ですと、冬でも少し汗ばむような登山日和になるのですが、ひとたび低気圧に見舞われると、雨・雪・風によって体力は一気に消耗します。ですから最悪のことを想定した装備をザック内に用意しておかない いけません。

Hukan_kirisima212_2 ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し

朔太郎ではありませんが、とても海外へ行ける金もヒマもないし、だいいちパスポートは10年前に切れたままですwww。というわけで今回はオーヴェルニュ地方はあきらめ、霧島屋久国立公園霧島山(韓国岳)に行ってきました。このイラストでは中央部に描かれた爆裂火口の山と、その右隣に見える火口湖がそうですね。まぁ九州は海の向こうといえば向こうなんですけど・・・(汗)。

Photo_2 今回お世話になったのは毎日新聞旅行さんです。往復のフェリー代+チャーターバス+登山ガイド+お弁当つきで、\14500-は大変お得でした。忘年会でちょっとハメを外したら、これくらいはぶっ飛びますからね。まぁワタシ、宴会の類はほとんど行きませんから関係ないですけど。。。

ワタシが選択したのは前述のように、えびの高原から韓国(からくに)岳に登り、火口湖の大浪池を周ってくるルートです。写真は4合目あたりから振り返って見た硫黄山えびの高原です。

Photo_23 Photo_24 ところが5合目あたりから急にガスがかかり、気温も低下してきました。今回は九州随一といわれるパノラマを楽しみにしていたので、少々メゲメゲになりました。

Photo_7 しかしそこは腫れ男、いや晴れ男の面目躍如、7合目か8合目あたりから雲海の上に出るような感じでガスが切れてきます。

南に視線をやれば、鹿児島湾に浮かぶ桜島の遠景が、北側に目をやれば足元をすくうかのように、韓国岳の火口壁がスッパリと切れ落ちています。そうそう、この記事の2枚目の写真上方で陽光にきらめいているのが鹿児島湾です。

Photo_8Photo_9 9合目あたりで山腹を回りこんでいけば突然視界が広がり、天孫降臨の山である高千穂峰まで見渡せるようになります。今回の山旅の最大目的達成で、「やったぜ!ベィビー!(死語 笑)」と叫んでしまいました。

ここまで来れば山頂までもうひと息です。

Photo_27 Photo_14 韓国岳の山頂は風が強かったのですが、それ以上に周囲の風景に圧倒されました。おそるおそる下を覗くと、はるか下方に火口底が見えます。何日か雨が降り続くと、ここにも水が溜まるのだそうです。

奈良・大阪に生活基盤を置いていると、火山特有の地形に非日常感を覚えます。九州は桜島、霧島、阿蘇、雲仙と日本でも有数の火山の国でもありますし、また冬でも暖かいですから、関西人にとっては魅力のある地でしょうね。

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帰りは大浪池に下るルートを、景色に気を取られ過ぎないよう、慎重に下りていきます。鞍部までの標高差は400m近くで、半分以上が木製の階段になっているというルートです。それも所々で朽ちかけ、歩きにくくなっていました。

となると逆に登ってくる場合は、階段を400m近く登ることになりますね。150階以上のビルの階段を上るようなものなんでしょうか。。。。

Photo_18

大浪池避難小屋あたりから下りてきたルートを振り返ってみました。ドーム型の山容からは、はるか太古の昔より、溶岩が少しずつ流れてきた跡がしのばれます。

そして何億という四季がめぐりきて、様々な生命が連綿と紡がれて、悠久の時を越えて今の姿があるのでしょうね。でもそんな人間の思惑にはおかまいなしに、今年の春もミヤマキリシマの花が咲き乱れるのでしょう。

Photo_19 Photo_20

日本離れしたスケールの霧島山系を、穏やかな冬の日に歩けたのは今年最後の収穫でした。

天孫降臨の伝説があるのも、やはりそれだけ美しい山なのでしょう(稲作ができる県北部の高千穂峡の方が本命らしいですが・・)。

帰りに立ち寄った霧島神宮の上にも青空が広がっていました。

Photo_21

山麓の都城市からの遠望です。高千穂峰は秀麗で、やはり山らしい形をしています。坂本龍馬おりょうさんとの新婚旅行で登ったという史実にも思わず頷いてしまいます。

おだやかな山行きとは裏腹に、行き帰りのフェリーは低気圧の影響か、黒潮の流れのせいなのか、大阪湾以外は一晩中大きく揺れまくっていました。おかげさまで今でも身体の感覚がおかしいままですwww。

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2007年8月20日 (月)

久々の鳥取の海

小学校1年生の時だったか、家族旅行で鳥取に行ったことがあります。京都駅から山陰本線のディーゼル機関車に乗ったこと、余部の鉄橋を渡ったこと、砂丘では母のハンドバッグの中にも砂が入いりこんだこと、白兎海岸で泳いだ(水浴びした?)こと、遠泳する父を見て不安になったこと、東郷池で魚釣りをしたこと・・・などなど、結構記憶に残っているものなんですね。

さてサッカー観戦を兼ねての鳥取への日帰り旅でしたが、一昨年の天皇杯は、サッカーだけ観てのとんぼ返りでしたので、今回は丸一日ゆっくり歩き回ることにしました。

Photo_15 鳥取で開業している後輩に案内してもらい、まずは「かろいち」で白イカの昼食です。

さっきまで生け簀で泳いでいたやつですから、体液が流れ、足が動いています・・・。目もパッチリ開いているしぃ・・・。(^^;) 

でも大阪ではなかなか食する機会がありませんから、美味しくいただきました。

Photo_4 Photo_5 砂丘は灼熱地獄かな?と思いましたが、むしろ海風が心地よく、足の裏に伝わる砂の熱さも楽しむことができました。

馬の背に登りつめると、空の青さ、海の蒼さが目にしみます。何もないこと、それは想像力を広げることができる贅沢な空間なのかもしれません。

Photo_11 Photo_12

砂丘をあとにして兵庫県との県境に近い浦富海岸へ。

20年ほど前、東浜から兵庫県の香住まで、1泊2日の行程でカヌーを漕いだことがあります(右写真)。梅雨明け10日は神様がくれた夏休みと言われるくらい、あの日本海がベタ凪になります。この機会を利用して、山陰海岸国立公園の断崖の洞窟を巡りながら、数10kmをパドリングしたのです。もっともフジタカヌーの藤田社長に連れられての20名ほどのツアーでしたから完漕できたのでしょうが、単独あるいは少人数ならとても無理だったでしょうね。

Photo_9 Photo_7 さて、鳥取の海にはちょっとしたサーフポイントもあります。この季節、診療所のモニターによく「ビッグウェンズデー」のDVDを流していますが、この映画はワタシの青春のひとつでした。気だるい夏の昼下がり、波乗りに疲れたサーファー達が、ぼつぼつと帰り支度を始めていました。浜で座って見守っていた恋人らしき女の子が印象的でした。

Photo_13 Photo_14 夕方からは鳥取バードスタジアムに移動してのJリーグ観戦です。

後半は圧倒的に攻められたものの、セレッソ大阪サガン鳥栖に2-1で勝つことができました。

Photo_16

帰りはセレッソ大阪が用意してくれたバスに乗せてもらいました。大阪-鳥取の往復がなんと1000円という激安料金だったので申込者が多く、13台のバスが動員されていました。

大阪駅に着いたのが23時半、自宅までの最終電車に間に合ってヤレヤレです。

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2007年7月27日 (金)

東京レトロ

研修3日目の「海の日」の朝、コンビニでサンドイッチとミネラルウォーターを買い、早めに研修会場に着いてそこで食べようと思ったのに、予想外なことにまだ入り口のシャッターは上がっていなかった。7月最強といわれた台風は銚子沖に遠ざかり、ぐずついたここ数日とはうってかわって朝から強力な日射しがじりじりと照りつけていた。

だからといって他に行くあてもなく、適当に周辺の街中をうろつこうと思ったのだけれど、まだ8時過ぎとはいえ、少し歩けば汗が噴き出しそうで億劫になっていた。

この界隈は上野駅から徒歩10分ほどの、湯島天神にほど近いビジネス街とも下町ともいえない微妙なところで、デパートの裏手には昔ながらの銭湯や市場があったりして、それはそれで街を観察すればネタがあちこちに転がっていそうな、そんなところだった。

おそらく気の抜けた顔をしてたと思うけれど、なるべく日陰側を歩いていたら、研修会場から2つ目の角を曲がったところに、懐かしい雰囲気の家があって、それは僕が幼児から思春期の頃というか、日本が戦後の混乱から脱却して高度成長をはじめた頃に、そこかしこに見られたごく普通の家がマンションの谷間にあって、しかも向かいには集合住宅予定地の看板も立てかけられており、なんとなく奇妙な感覚を覚えたのだ。

Photo で、この懐かしさが入り交じった奇妙な違和感は何だろうな・・・としばらく考えていたら、それはあたかも集中治療室の患者さんにつながれた栄養チューブのように見える、四つ角の電柱からその家にまとわりつこうとする無数の電線のせいかもしれないなという結論に至ったので、デジカメをレトロモードに設定して撮影してみた。昭和の半ば頃と現在の文明の大きな違いのひとつに電化製品の数があるけれど、小学生の頃はテレビも電話も家に一台しかないのが当たり前で、夜10時ともなると家の周囲は薄暗く、子供達は皆、当然のごとく就寝していたような記憶がある。

この家に不思議な感覚を覚えたのは、電線の多さだけではなく、昔は打ち水が撒かれていたであろう土の道もアスファルトで固められ、老人達や子供達がおしゃべりしながら行き交うこともなくなり、屋根の上は青い空の代わりに白いマンションが覆い被さっていたからかなと思ったりしてみる。

レトロ調の写真を見れば、縁台を出して下着姿で涼んでいた人々や、おかっぱ頭でシュミーズ姿の少女達が懐かしく思え、自分はいったい何歳になったんだろう・・・とついつい考えてしまった、台風一過後の朝のヒトコマである。

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2007年7月22日 (日)

墨東綺譚(僕と来たん?)

何やらワケのわからんタイトルになっていますが、永井荷風が江東区向島周辺を好奇心で歩き回ったように、ワタシも研修の合間に東京の街をブラついてきました。

先週金曜日に尾瀬に行ったことは既出ですが、最初の研修が終わって池袋のバス乗り場に行く前、尾瀬から帰ってきて次の研修が始まる前、研修が全て終わって帰阪する前、それぞれの東京放浪について記してみたいと思います。

Photo_486 まず1日目。外神田の研修会場から、なんだかんだの明神さんの裏を通ってお茶の水方面に向かって歩きますと、少し回り道になりますが、JFAのビルの中にサッカー博物館がありました。

Photo_487 「あっ、これかぁ!」と写真を撮っただけでUターンして(なんじゃそりゃ?)、お茶の水駅に向かいます。途中で高層化し続ける東京医科歯科大学を仰ぎ、角を曲がれば、湯島の聖堂です。

名前は聞いたことはあるものの、その名からニコライ堂などの西洋の宗教施設を想像していたのですが、実際は孔子を祀ってあるのですね。「堂」というよりも「廟」なのかな? いや「廟」は宗教施設じゃないのかな??などと考えてました。雨上がりの鬱蒼とした境内(というのか?)には人影はなく、ここは本当に東京?と思わせるような不思議な空間でした。

Photo_488 次はお茶の水駅の上にある聖橋です。ちょうど地下鉄と中央線と総武線の3つの列車が同時に走っているところでした。ワタシが小さい頃に読んだ本に、この辺りの写真で関東ローム層の説明がありましたが、もちろん今ではローム層を直接見ることはできません。

Photo_489その後、国立競技場そばのサッカーショップに行きたくなって、お茶の水駅から総武線に乗って千駄ヶ谷駅で降りました。ついでに神宮外苑周辺をぶらついた後、新宿まで歩きました。

バスは23時発なんですが、見たい映画もなかったし歓楽街は興味がないし山歩きの格好で荷物はあるし、結構時間つぶしには苦労しました。写真は池袋のサンシャイン横のビルです。その時は「キレイ!」と感動したものの、柏崎原発が停止になった今、真っ先に省エネしないとアカんビルちゃうかぁ・・・?と思います。

Photo_490 Photo_491 尾瀬から下りてきた翌日の朝は、ちょいと浅草まで足をのばしました。まずは吾妻橋から見た隅田川ですが、ここは東南アジア?と思わせるような船着き場がありました。と思うまもなく、下流から超近代的な船が遡上してきます。う~ん、何ともいえないデザインです。

Photo_493 Photo_494

雨の中、もと来た道を引き返して今度は仲見世へ。雷門の提灯は半分に折り畳まれていましたが、これは天候が悪かったからでしょうか?

東京は何度か来ているワタシですが、浅草は初めてで、ごちゃごちゃした感じがとても面白かったです。

Photo_495 Photo_496 仲見世はお土産屋さんがずらっと並んでいるような通りですが、特に人形焼き屋さん、煎餅屋さん、そして着物屋さん(呉服屋さんではない)が目立ちます。

そういえば通行人はアジア人を含めて、外国人の方が多いように思います。子供の浴衣や鉢巻きも英語で説明が書かれていました。

ちなみに「神風」「Divine wind」と言うそうです。知らなかった・・・。「闘魂」「Fighting spirit」で、「必勝」「Get victory」やったかな?

Photo_499 Photo_500 仲見世から外れてロック通りの方へ行けば、いくつかの演芸場がありまして、最近テレビ出演の少ないこの方も出ておられました。そういえば世界のキタノ監督・ビートたけしさんも浅草のフランス座で下積み生活を続けておられたはずですわ。

右写真は某食堂のキャッチコピーです・・・。う~ん、食欲がソソられるのかどうか・・・。(^_^;)

Photo_501 Photo_502

後半の研修2日目の夜は懇親会で秋葉原の焼き肉屋さんへ。台風の影響で強い風が吹いていました。

写真は強風に揺れる秋葉原の街灯の垂れ幕です。いやぁアキバはアニメの街でもあるんですねぇ・・・。ワタシ、アニメ系統はあまり好きではありません。メイド喫茶も行きたいとは思いません。でも大阪のバドガールのビアホールには行ったことがあるなぁ・・(汗)。

Photo_504 Photo_503 延べ4日間に渡る長かった研修もやっと終わり、御徒町の金券ショップで帰りの「のぞみ」のチケットを買い、さぁ帰阪しようと思ったところ、目の前を「早稲田」行きのバスが通りました。ハンカチ王子ブームに沸く早大ですが、ワタシはまだキャンパスに行ったことがありません。てなわけでいつの間にか衝動的にバスに乗り込んでいました(汗)。右写真はハリーポッターではありません。

天気が不安定な中、早大のキャンパスを歩きます。大隈重信像は右足を失ってから制作されたものだそうですが、下顎の筋肉に強い緊張が見られるのは、身体のバランスをとるためなのでしょうか? 銅像とはいえ偉人に接すると何か心を揺り動かされるような気がします。

そこから高田馬場までえっちらおっちら歩いて、JR電車で東京駅へ移動です。

ところが3連休のレジャーと、地震による上越新幹線の不通などが重なって、指定席の窓口は大混雑。30分並んでようやく指定席を取って帰阪しました。途中で奈良でも地震があったよ~とメールが来ました。最近の天地異変は本当に気になりますね・・・。

Photo_505

東京徘徊のお供はCrocsのサンダルでした。夜行バスや新幹線でも快適に過ごせ、台風などの雨でも濡れる心配をしなくてすみ(というか素足だから濡れても平気)、とても軽くて歩きやすいのです。あ、もちろん尾瀬の山行はゴアテックスのトレッキングシューズ(North Face社)でしたけどね。

ちなみにワンポイントアクセサリーとして歯の形のボタンを付けていました。実際に売っているんですよ~!

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2007年7月17日 (火)

はるかな尾瀬

写真はクリックすると拡大します。

学生時代はワンダーフォーゲル部に所属していて、在学中は南は屋久島・宮之浦岳、北は大雪・十勝山系の山々まで旅に出ていました。ワタシが入部する直前の春合宿が尾瀬の山スキーで、一学年上の先輩が、雪の尾瀬至仏山の話をよくしてくれました。

いかんせん、尾瀬は関西からは中途半端に遠く、ましてや時間の取りにくい社会人になれば、なかなか行けるところではありません。ワタシにとって、まさに「♪はるかな尾瀬・・」でした。

ところが東京で7月中旬の木曜日と土日月、2回に分かれた研修を受けることになり、「ひょっとして尾瀬に行けるかも?」と思ってガイドブックを買い求めました。そして夜行バスをうまく使えば、その合間の金曜日を日帰り山行として十分に使えることがわかりました。

Photo_446 池袋を23時に発ったバスは4時頃に戸倉に到着です。鳩待峠への通行は許可車両のみですから、ここで乗り合いのマイクロバスに移動です。

天気の状況と現在の体力を考え、最初は鳩待峠から下って、尾瀬ヶ原を歩こうと思っていましたが、ガイドブックの写真のように、尾瀬を高みから俯瞰したい・・との思いを抑えきれず、至仏山に続く尾根を登る道を選択しました。このコースの半分は樹林帯で、もし天候の急変などがあっても、比較的容易に引き返せますから・・・。

Photo_481 日頃の行いが良いせいか、台風接近にもかかわらず、若干のガスが尾瀬ヶ原側に出ているだけで、幸い雨は降りませんでした。樹林帯が切れる度に視界が開け、右手下方には朝もやに煙る尾瀬ヶ原が見えてきます。いきおいステッキの音も軽快になってきます。

樹林の中の道に疲れて来た頃、ちょうど1時間が経過した地点がオヤマ沢で、少し上がれば尾根上の湿原の「オヤマ沢田代」です。

Photo_451 Photo_452

「オヤマ沢田代」は、ここが尾根上とは信じられないくらい広々とした高層湿原で、可憐な花がたくさん咲いていました。

先ほどまでのハイペースの歩きはどこへやら、木道に腹這いになりながら、花の撮影に夢中になっている自分がいました。

Photo_484 Photo_485 でも天候が急変するおそれがあるので、至仏山を目指して再びペースを早めるものの、次から次へと現れる山の妖精達に、しばし足を止められます。

目を凝らせば、湿原にはイワカガミの花が咲いていました。

Photo_455 Photo_456 小至仏山に近づく頃に森林限界を越え、一気に視界は広がります。遠くは尾瀬ヶ原の俯瞰、足元は可憐な花と、贅沢な旅はまだまだ続いています。白い花はお馴染みのチングルマでしょうね

登山道を外れた所には、ところどころ雪渓が消えずに残っていました。

Photo_457 Photo_458 小至仏山のピークに上がれば、至仏山は目の前に見えてきますが、相変わらず尾瀬ヶ原側は時折ガスがかかる天候でした。

小至仏山頂上直下にはシャクナゲの花が揺れていました。

Photo_459 Photo_460

至仏山への最後の登りです。岩をよじる度に目の前に可憐な花が次々と現れます。これはウスユキソウ(エーデルワイスの一種)と、もうひとつは何でしょうね?まだ蕾の状態なので特定しにくいです。

水滴のアクセサリーをつけた彼女たちは、あたかも華やかなパーティに出かけていくかのように、黄、銀、紫、赤など色とりどりのイブニングドレスをまとっていました。

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ハイマツの実?とウラジロヨウラクの花に水滴と、またまた目が釘付けになります。オヤマ沢からは花を愛でながらのチンタラ歩きでしたが、ようやく至仏山(2228m)に到着です。鳩待峠から2時間少しでしたが、誰一人として出会う人のいなかった静かで幻想的な山旅でした。

Photo_463 Photo_464 頂上から少し下ったところが高天原で、ここからはるか下方に尾瀬ヶ原が見下ろせます。はるか東方に目をやれば、雲がとぎれる度に燧ガ岳が姿を現します。

眼前に広がる景色は一見ゴルフ場のようですが、ゴルフをしないワタシにとっては、セントアンドリュースやオーガスタの名門コースでも、尾瀬ヶ原の前には完全に色褪せてしまうでしょう。それは気の遠くなるような時間をかけて、神様が作り上げてきたコースだからです。

そうそう蛇紋岩の陰ではタカネシオガマジョウシュウアズマギクが見られました。

尾瀬ヶ原・山の鼻までは2~3時間ほどの下りですが、この道を下りのルートに取るのはオススメできません。なぜなら850mを一気に下る蛇紋岩の道は、本当によく滑ります。ワタシも2,3度しりもちをつき、その度にテンションが下がっていきました。普通は下りは登りの1/2~2/3のコースタイムなのですが、ここはほぼ同タイムで、骨折事故も多いとのこと。是非とも登りに使って下さい。

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そんな悪路でしたが、メゲそうになる気分を慰めてくれたのは、やはり登山路脇の小さな花達でした。右端の黄色い花はシナノキンバイキンロバイでしょうか?それ以外は名前がわかりませんが・・・(汗)。

Photo_469 Photo_468 樹林帯に入ったら入ったで、水浸しの悪路が続き、ようやく山頂から2時間後に山の鼻のビジターセンターに到着しました。結局、人に出会ったのは、この道を登ってきた数名だけでした。

Photo_470 Photo_471 14時のバスの時間までの4時間は、ニッコウキスゲワタスゲアヤメなどが風に揺れる尾瀬ヶ原を気ままに歩きます。

平日でしたが、結構多くの人が訪れていました。でも他の国立公園と違って、ハイヒールやサンダルの方がいない分だけ、貴重な自然はよく保たれているのでしょう。

Photo_479 Photo_473 時々遠くを見ること、それは気ぜわしい社会に生きる我々にとって、とても貴重な時間なのかもしれません。

そして「文明」と「自然」を考える、あるいは「宇宙」に生かされていることを知る、いい機会なのかもしれません。

Photo_474 Photo_475 はるかなる昔より連綿と続く生命の息吹は、そこかしこの池塘でも見ることができます。

このモウセンゴケも何世代にも渡って、この地で生命を紡ぎ続けてきたのでしょう。それは本当に気の遠くなる時間です。

Photo_476 Photo_477 後ろを振り返れば、苦労して下りた至仏山が微笑みかけてきます。

足元の池塘を見ればヒツジグサが水面に揺らめいていました。

Photo_478 牛首を過ぎ、三叉路のところで腰を下ろして、名残を惜しむように周囲を見渡します。前方にそびえ立つ燧ガ岳に別れを告げて踵を返し、元の木道を引き返していきました。

その日の夜に東京に戻ったワタシは、再び殺伐した大都会の人混みに流され、過剰ともいえる光の洪水に頬を照らされていました。

Photo_482 でも尾瀬の鮮やかな緑、可憐な花、そして至仏山燧ガ岳の上の遠い空は、今でも瞼に焼き付いています。それらの情景はいつでもパソコンのモニターいっぱいに映し出すことができ、それは気ぜわしい日常を生き抜くパワーになってくれるのかもしれません。

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2007年6月 6日 (水)

光のある風景

Photo_361 前回の記事でも書きましたように、土日は東京で研修を受けていました。持ち運びできる歯を削るドリルや、咬合器、模型、教本など、持参するものが多くて、手荷物運びに苦労しましたが・・・。

講演を聴講するのと違って、研修の方は少人数&実習付きですから、頭も身体も疲れます。今回の講師の先生は専門分野の本も出版されており、家でじっくり本を読んで勉強するという方法もあります。しかし生身の受講では、本には載せていない「ちょっとした勘どころ」や「施術における手の使い方」なども教えてくれますので、臨床におおいに役立ちます。

歯科治療は技術が占める割合が高いですので、職人さんのような徒弟関係はある意味大切ですね。

Photo_362 はてさて疲れ切った頭をリフレッシュさせるべく、研修後は本郷方面を散策してきました。ワタシにはまるっきり縁のなかった東京大学のキャンパス縦断です。

ここで少し驚いたのですが、キャンパス内にローソンがあるんですね。

それも看板にはワンポイントのイチョウのマークがあり、色も落ち着いたものに変更されていました。

Photo_363 東大病院を回って池之端門から出て、不忍池周囲の樹々の上から突き出ているビル群を眺め、暮れなずんでいく上野公園をぶらつき、お上りさんのごとく西郷さんの銅像を仰ぎ見てから、上野駅に向かいました。

上野は大阪でいえば天王寺のような所でしょうか、公園や動物園や美術館があって、鉄道の終着駅でもあり、庶民の町でもあります。北海道の修学旅行の帰りに立ち寄ったり、成田空港に向かうときに乗り換えたりした学生時代の頃とほとんど変わっていないような気がしました。「聚楽」という食堂もいまだに昭和の名残をとどめていましたね。

Photo_364 さて帰阪して月・火といつものようにルーチンな診療をこなし、とても暑い水曜日となりました。

ゴールデンウィークから1ヶ月近くは、土日研修や日曜診療などでほとんど休みのない状態でしたが、午後は休診にしている水曜日が久々の休日です(とはいってもフリーは半日で、夜は家事当番なんですが・・)。

そこでアメリカ村に出て髪の毛を切りに行くことにしました。三角公園を見下ろす格好のロケーションの地に知人が美容院を経営していますので、いつもそこでお世話になっています。この日も暑くて、プランター越しに見る三角公園は初夏の装いの若者達で溢れていました。

Photo_365 その暑気の中、最近のファッションをチェックしながらJRなんば駅に向かいます。暑さにめげそうになって地下道にもぐり込んだところに、沢山のオブジェを埋め込んだガラスの壁があります。

いつもは動く歩道で足早に通り過ぎるのですが、この日はひとつひとつのオブジェをゆっくり見ながら帰りました。ガラス越しの光が時間とともに微妙に変化していくのを見ていると、いつも以上にひんやりとした空気を感じ取れるような気がしました。

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2007年4月30日 (月)

奈良県平群町で乗馬体験!

JR茨木千里中央まで歩いたその日の夕方、今度は王寺で途中下車して平群町に新しくできた乗馬センターに行ってきました。

行き先は「fuji ライディングパーク」 (0745-46-1638)で、

生駒郡平群町福貴696にあります(地図は拡大できます)。

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ここはワタシの大学の同級生で、現在は某総合病院の副院長&歯科口腔外科部長をしているいかちゃんのお兄さんが経営しています。このお兄さん、もともとは小学校の先生で、一時はオーストラリアでも牧場を経営されておられました。

乗馬センターは奈良県人でもわかりにくい山の中にあるので、国道168号線を利用される方のために、ちょっと道案内していきましょう。あるいは生駒山~信貴山の中腹を走る広域農道?をご存知なら、途中にある行き先表示板にしたがって下るルートでも行くことができます。

Photo_308 写真は近鉄平群駅から来る道と交差する「吉新」交差点です。南西角に奈良中央信用金庫の赤い看板ていうかポールがありますから、ここを西に曲がります(王寺からだと左折、生駒からだと右折)。

Photo_291 2階建てで全然目立たない平群町役場の前を通り、竜田川を渡ったら信号をすぐに左折します。慣れると生駒から来る場合は右からの道を使ってもいいでしょうね。この道はすぐに右にカーブして急勾配で登るようになりますが、山の中腹にあるナイター照明の施設に向かっていれば間違いありません。

Photo_305 Photo_306 右手に見えるナイター設備のある立派な建物は平群町の総合運動センターで、ウォーターパークとも呼ばれています。 さらに登っていくと左手に平群西小学校があります。この小学校の端にある交差点を標識通り十三峠の方に右折します。橋を渡ってしまったら行き過ぎですよ。

Photo_295この交差点が少しヤヤこしくて、四つ角ではなくて五つ角になっていますが、90度右に曲がる一番手前の道を選択します。結構勾配がキツいので、しばらくは◎◎◎の滑り止めのある舗装面になっています。ここを登って左にカーブしていくと「fujiライディングパーク」の看板が目に飛び込んできます。徒歩だと近鉄平群駅から30分くらいです(帰りは20分くらい)。

Photo_298 Photo_299 入り口を入れば、気さくなオーナーファミリーが出迎えてくれますよ。まったく初心者の方でも、小さなお子さんでも気軽に乗馬を楽しんで下さい・・・とのことでした。広い窓の向こうが馬場で、晴れた日には遠く大峰の山々が見えますから、心からリラックスできると思います。

Photo_307 お馬さんは全部で7頭。小さなお子さん向けにポニーも用意しているそうですよ。

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2007年2月 4日 (日)

雪の越中・五箇山

時々遠くを見ること。

それは現実の中で、悠久なるものとの出会いを与えてくれる。。。。

              星野道夫(Alaska 星のような物語)

北日本を寒波が襲ったその日、僕は特急「サンダーバード」のシートに身を沈めていた。北陸トンネルを抜けると、そこは鉛色の雲が低く垂れ込め、雪が車窓を容赦なく叩きつける世界であった。

都会暮らしに欠けているもの、それは遠くまで見渡せる視界ではないだろうか。雲の流れを追うには、こうべを反らして仰ぎ見る必要がある。遠くの山の景色を辿るには、ビルの谷間に目を凝らす必要がある。

雪の切れ間から見える北国の景色は、遮るものなしに、どこまでも広がるモノトーンの水田地帯であった。その風景はとても非日常的で、その日は見えなかった加賀の白山を、想像力を膨らませながら心で描いた。

Photo_155 金沢、高岡を過ぎ、砺波平野を南下しながら山に向かう頃、風は穏やかになっていた。その代わり音もなく雪は降り続き、街道を行き交う車もほとんどない。山間部に入れば、樹氷に囲まれた静かな静かな世界であった。

しんしん・・・太平洋側の気候に慣れた身体を否定するかのように、冬の妖精は天から止めどなく舞い降りてくる。

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村の中ほどに「くろば温泉」がある。木彫りの熊がよじ登る看板にも、絶え間なく雪は降り続ける。露天風呂から眺める樹々は、物言わぬ静かな精霊であった。

四季折々の自然の営み、悠久の時の流れ、頬をかすめる風の詩、それは都会では感じにくいものである。

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庄川の上流部には世界文化遺産がある。越中の五箇山と飛騨の白川郷である。加賀の白山の裏手、両岸に山が押し迫る険峻な地にその村はある。

冬の白川郷はさらに閉ざされた世界だ。僕は日帰り訪問を断念し、越中五箇山を丹念に訪徨することにした。

よく日本の原風景と謳うけれど、いつから人は、自然のリズムを忘れてしまったのだろう。四季の美しさも細やかさも、慌ただしい生活のうちではついつい見逃しがちになる。 Photo_159  

Photo_164 合掌造りの家は思ったよりも小振りであった。3階建てとはいえ、軒も屋根も低く、とても機能的に出来ている。

閉ざされる冬、それは家屋の中に広がりを必要とした。人々は家の中で和紙を漉き、食を保存し、塩硝を作り、機を織った。その住まいは生産場も兼ねていたのだ。

Photo_161 夕暮れが迫る頃、学童帽をかぶった子供達が雪降る中を家路につく。明かりの灯った玄関に吸い込まれた後は、再び静寂に包まれた世界だ。相変わらず天からは冬の妖精が休みなく舞い降りてくる。

その結晶を手のひらで受け止めると、心の奥深くまでじんわり温もりが沁み通る気がした。不思議なことに寒さは感じなかった。

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夕闇に追い立てられるように山を下り、慌ただしく高岡駅に舞い戻ると、懐かしい色の電車が滑り込んできた。30年前、この色の夜行急行「立山」に乗って、よく金沢や信州を旅していた。

もうすぐ節分。あと2ヶ月も経てば、草の芽吹きとともに、まばゆい春が訪れるのだろう。

遠くを見に来て、本当に良かったと思う。。。。

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2006年12月23日 (土)

山崎の合戦(天王山)

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12月にしては穏やかな晴天の日だったので、ふと天王山に登ってみようと思いました。以前、大東市の飯盛山城跡に登った時、北方の男山と天王山との狭隘部から京都の街が俯瞰できて驚いた・・と書きましたが、それ以来気になっていた山です。
JR山崎駅で下車するも、事前にネットで簡単な検索しかしていなかったので、右も左もわかりません。天王山方面へ向かう踏切のところに「大山崎町歴史資料館」の小さな案内板があったので、200mほど歩いて、まずはそこで大山崎の地理と歴史をお勉強です。山崎の合戦のあった場所と、天王山への登山路を確認しておきました。ついでに離宮八幡宮へも寄り道です。

Photo_97 秀吉と光秀が覇権を争った戦いにちなんで、ここ一番の勝負事を天王山と言いますが、実際の戦場は天王山ではなく、長岡京市と大山崎町にまたがる西国街道沿いの平地、今は山崎ジャンクションのあるあたりだったようです。
山崎といえばサントリーの工場を思い浮かべますね。でも工場は大阪府の島本町、一方、大山崎町は京都府なんです。大阪府(摂津の国)から京都府(山城の国)に入るには、この山と川に挟まれた地を通ることになりますが、現在も名神(トンネル)、JR東海道線、阪急京都線、東海道新幹線、、旧西国街道、国道171号線、そして淀川を挟んで京阪本線と、重要な交通ルートがこの地にかたまっています。今も昔も要害の地であり、日本の生命線であることに変わりはありません。

Photo_98 さて駅の北側の踏切を渡り、天王山の陶板表示板のある自動車道を真っ直ぐ登り、大念寺を右に見てそのまま進んだところに宝積寺があります。このお寺の境内に入り、本堂前を右へ抜けると、天王山へ続く登り道です。途中で右折して、アサヒビール・大山崎山荘を経由するルートもあるようですね。

Photo_99 少し足がだるくなるころに三川合流(木津川・宇治川・桂川が合わさって淀川となる)の地が俯瞰できる展望広場があり、逆光の中を淀川が滔々と流れていました。対岸の樟葉の高層マンションがひときわ目立っていました。天王山はぼた餅のような山ですから、取っ掛かりの傾斜はキツいものの、ここまでくれば穏やかな登りになります。旗立松までもうひと頑張り。

Photo_100 Photo_101 ほどなく石の鳥居と合戦場を見下ろす展望台に到着。眼下には主戦場となった地と、三川が集まる低地帯、そのはるか向こうに伏見丘陵と京都市街が望めました。鳥居の横には合戦屏風のようなイラストがあり、数では秀吉軍に負ける光秀軍が苦戦している様子が描かれていました(光秀本陣は左上の方)。

Photo_102 さらに山道を登っていくと、酒解神社を経て標高270mの天王山山頂に着きます。かつての城の名残で、山頂付近では礎石が転がり、またいくつかの建物があったであろう平坦な地も見られました。強者どもが夢の跡、小さな石塔周辺には落ち葉が舞い集まっていましたが、優しい冬の陽差しが寂寥感を薄めてくれていました。

Photo_106 Photo_107 帰りは山崎聖天への道をとり、急勾配の石段を下りて山麓の住宅街に到着。線路沿いを歩きながら、大山崎は改めて交通の要衝であることを認識させられました。対岸を望めば、緑豊かな男山と対照的に、その南側は山頂まで家がぎっしりと建ち並んでいるのが見えます。京都府側と大阪府側の規制の違いなんでしょうか、少し不思議な風景でした。

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2006年11月26日 (日)

延命寺の紅葉

Photo_62 今日は自分が歯の治療を受ける日です。いつもお世話になっているのは堺市の泉北ニュータウンの歯科ですが、15時予約までの時間つぶしに南河内の紅葉を見に行くことにしました。

検索してみると、河内長野方面には知名度の高い滝谷不動や観心寺以外にも、延命寺という隠れた名所があるそうです。駅から何とか歩いて行けそうですし、一度足を運んでみることにしました。

乗り換えミスしながら、なんとか南海高野線の「三日市町」駅に到着。駅前に小さな表示板をかろうじて見つけ、ハイカーが下ってくる方向にお寺があるんだろうと、石見川に沿って上流へ向かいました。

Photo_63ワンゲルに所属していたので、学生時代にはよく金剛山系へ錬成登山に来ていたのですが、河内長野周辺は丘の上まで住宅街が広がっていたことに少々驚きました。昔ながらの山の麓の集落と、自然の地形に反するように広がる新興住宅地とのアンバランスな風景は、今の日本を象徴しているのでしょうか?

駅から3キロほど歩いて、ようやく門前に到着しました。焼き芋を頬張りながらさらにひと登りすると、紅葉のトンネルの向こうに山門が見えました。

Photo_64 Photo_65 こぢんまりとしたお寺でしたが、境内はきれいにお手入れがなされ、あちこちに植えられていた紅葉の樹が、様々なグラデーションで色づき、緑とのコントラストが時を忘れさせるほど美しかったです。

道が細くて観光バスでは来られないせいか、参拝客の喧噪もなく、深まりゆく秋を静かに静かに味わうことができました。

Photo_66 山門を出て名残惜しく振り返れば、午後の淡い陽射しに、紅葉の葉が照り映えていました・・・・。

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